マクナマラの誤謬/ボディーカウント | yosia621のブログ

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ケネディ政権下で介入が始まったベトナム戦争(1955年11月~1975年4月)はジョンソン政権下で終わりを告げる。(始まった年月日は諸説あります。)

 

「マクナマラの誤謬」はベトナム戦争でのアメリカ敗戦の原因の一つとされています。

 *誤謬(ごびゅう):まちがえること、またマチガイ。

 

ロバート・マクナマラはハーバード大学を卒業し、「科学的管理法」で知られるフレデリック・テイラーの下で確立された科学的測定方法を学んだという人物。

 

この経験に基づき、国防長官となったマクナマラは「定量的指標」を用いてベトナム戦争に勝つことができると考えた。

具体的には「アメリカ兵の死亡数と敵兵の死亡数の比率」に着目し、「アメリカ兵の死者数よりも多くの敵兵が死亡している限り、アメリカ軍は勝利へ進んでいる」と判断できるとする考え。

 

「アジアの共産化を防ぐために北ベトナムを叩く」

国民によって選ばれた大統領に使える仕事で、大統領が国民の為に決めた政策を実行することが私の責任なのだ。とマクナマラは思っていた。

 

1964年8月、キントン湾で、北ベトナムの水上艦艇による米軍駆逐艦攻撃事件が起こる。これによって本格的な軍事介入のきっかけとなった。

1965年2月米国により、北ベトナムに空爆いわゆる北爆が始まり、その年の暮れまでに20万人が投入され、闘いは一気に拡大した。

 

*後に北ベトナムによるキントン湾攻撃は嘘だったことが機密文章で判明する。

 

マクラナマは「定量的観測のみに基づいて決断を下し、他のすべての要素を無視すること」

そこで、敵兵の死亡数、死者の数を「ボディーカウント」した。

 

米兵1人の死亡に対しする北ベトナム兵の死亡比率を計算する為のカウントである

キルレシオ(米兵1:10敵兵)の目標をキープすることを指標とした。

マクラナマ国防長官は「そう(キルレシオ(米兵1:10敵兵)の目標をキープ)することで、北兵は直ぐに枯渇し戦争を継続できないポイントに早期に達するはず」と計算した。

 

そして、「米兵にボディーカウントを稼げ」と命令が下された。

 

兵士の手記

「ボディーカウントを取れ、ボディーカウントを取れ、ボディーカウントを取れってね、何処でも嫌と言うほど聞かされました。上から下まで士官まで、みんなそのことで頭が一杯だったんです」

 

本国アメリカでもボディーカウントが発表されて、その数値を根拠として「アメリカは軍事力で圧倒しており今後もそれは変わらない」と報道された。

 

しかし、数字では語れない北ベトナム人の愛国心や家族、友人を殺された憎しみといった人の感情を見誤ったマクナマラは計算を狂わせることになる。家族が殺され、友人の死を見た北ベトナムの人々は死の恐怖を越え、戦いに参加していった。

 

そんな、人の感情を係数にいれないマクラナマが、重要視し続けたのは死者数、ボディーカウントだった。

 

米軍は更に死者数(ボディーカウント)を稼ぐために空からの攻撃を強化し、無差別攻撃で数を稼ごうとした。

地上でも作戦はエスカレートし、ゲリラの潜伏を疑った村を丸ごと焼き払らい、民間人を殺すこともしばしばあった。

 

遂には、部隊対抗のボディーカウントコンテストまで行われ、優秀者には有休や豪華な食事を与えられた。

 

米兵士の手記

「ボディーカウント制は殺人に対する意欲を異様に高めて我々の価値観をもてあそんだ。19歳の若造に殺人をしてもいいんだ、そうすれば褒美がもらえるぞというわけだ、頭がおかしくなっても不思議はないだろう」

 

北ベトナムの死者の数はどんどん増えて、ある部隊ではキルレシオ/米兵1:45敵兵に達した。

数値目標(1:10)を達成しているのに何故、勝てないのか?マクラナマは疑い始めた。

 

1966年10月、ベトナム入りをして現地視察をした帰りの飛行機でダニエル・エルズバーグ現地調査員にその疑問をぶつけた。

 

マクナマラ

「政府は戦況は改善しつつあり我々は前進している、と考えているが、一番良く知っているのは君だ、どう思う?」

 

ダニエル・エルズバーグ

「長官、私の印象では状況は一年前となった同じです。

 

マクナマラ

「そうだろう、私が言いたいのもそこなんだよ。新たに10万人の増強をしたのに一向によくならない、つまりずっと悪くなっているという事だよ」

マクナマラの疑問は確信に変わり、撤退も視野に入れ始めてた。

 

ところが、飛行機を降り、記者に囲まれたマクナマラ国防長官は、真逆の事を言った。

「今日私がお伝えするのはこの一年の軍事的前進は、期待以上だという事です」と。

 

密室では空爆の停止と政治的解決を強く求め、1967年の11月初旬「北爆の停止とベトナム戦争への介入の段階的な縮小」を提案したが、ジョンソン大統領に拒絶された。

マクナマラは戦争継続の為に国民に嘘をつき続けるしかなかった。

 

戦況の改善の兆しは見えずに、焦ったマクナマラは1967年末までに48万5000人を、1968年6月までに53万5000人を投入した。

 

1968年1月、北ベトナムゲリラは南ベトナム、サイゴンの米国大使館が標的となり、占拠された、テト攻勢である。その様子はリアルタイムでTVで放送され、優勢と思っていた米国国民が衝撃を受けた。

更に捕虜となった北ベトナムの兵士が南ベトナムの国家警察によって、白昼の路上で射殺された映像も流された。

 

アメリカ世論が「この戦争に正義はあるのか」と揺らぎ始めた。

開戦時60%あった支持率が30%を割り込んだ。

 

1968年2月

国民や報道関係者は、米国兵350:北兵士15000  キルレシオは1:42.8となっているのに勝てない戦況にマクナマラ国防長官を疑い始めた。

マクラナマは同年2月に7年間務めた国防長官を退任した。

 

その3年後の1971年に事件が起きる

7000ページのベトナム戦争機密情報、通称ペンタゴン・ペーパーズが持ち出され新聞社に持ち込まれた。マクナマラが国防長官時代に作成を命じていた機密文章である。

 

ペンタゴン・ペーパーズから

・966年までの北爆の死傷者は36000人と推測されたが、80パーセントは一般市民だった。

・ベトナムにいる理由の10%は南ベトナムを守る為、20%は中国へのけん制の為、70%はアメリカの面子を保つ為である。

 

新聞社にリークしたのは「ダニエル・エルズバーグ」だった。

「危険は覚悟のうえです、全ての結果に責任を負う覚悟はあります。裁かれる覚悟もあります。この戦争を終わらせられれば本望です。」と語った。

 

国家が隠し続けた真実が明らかになり、反戦の声が爆発した

1973年米国はベトナムから軍を完全撤退させた。

 

2年後の1975年南ベトナムは降伏しベトナム戦争は終わり社会主義国となった。

米国6万人、ベトナム人は300万人を超える死者をだした。

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共産化を防ぐという大義の中で行われた戦争ではあったが、その過程の戦略が間違っていたのに修正できず、真実を隠蔽した結果、共産化を許してしまうことになりました。

 

神の国を創る、理想郷を求めて出発するも、その過程で霊感商法や過度な献金、拝金実績主義に陥り、内部は不正に満ち溢れ、理想は遥か遠くに追いやられている現実があります。

 

前線において、とにかく実績を出せと命令が下され、競わせることで結果が出る。

時とともに実績を出すことが目的となり、実績至上主義となり、嘘をついてでも結果の出せる人が神の栄光ともてはやされ、評価され、結果の出ないもは人事となる、そんな組織となった。

そして本当の事を語り合えない壁を作った組織となった。

疑問を持つとカイン的、サタン的と言われる組織となった。

真実の告白をすると切られ除名される組織となった。

 

家庭というコミニュティ-を、現金欲しさに実績追及の機能集団に変えてしまった罪は大きい。

 


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