生活者の日本統治時代 呉善花 | 読書は心の栄養

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生活者の日本統治時代―なぜ「よき関係」のあったことを語らないのか/三交社
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戦前、朝鮮併合から第2次大戦終結まで、日本は朝鮮を統治していました。
日本では、学校で悪いことをした、とは習うものの「どう悪いことをしたのか」というのは通常教わりません。

この本では、当時朝鮮半島に住んでいた
日本人
韓国人
双方の声を集めて紹介している。

まずは数値データから
朝鮮における日本人の人口は
大正9年(1921年)で17万人強
昭和6年(1931年)で52万人強
昭和17年(1942年)で75万人強
である。
朝鮮の人口は昭和6年当時で2098万人強だったので、
割合としては1%弱⇒3%強まで増えたことが分かる。(いずれにせよ、少ない)
日本人は8割強が都市部に住み、その3割(つまり全体の4分の1ほど)がソウルや釜山に住んでいました。
一方、朝鮮人の8割は農村に居住していました。

日本人の職業としては、約35%が公務員・自由業者でした。
産業別には、「商業及び輸送」が1位、工業が2位
朝鮮人の4分の3強が農業に従事していました。

朝鮮に来ている日本人は日本における平均よりも高い教育を受けた人が多く、
職業上の社会的地位が高く、高収入だった。
このため、中学校に進学する日本人の子供の割合は1000人当り約33名だったのに対し、
朝鮮人では1名強であった。
が、朝鮮人の話であるのだが、猛烈な競争が朝鮮人の中にあったため、成績トップは必ず朝鮮人が占めていたそうです。

このことだけを見るにおいて、日本人と朝鮮人の交流はかなり限られていたとかんがえられる。
日本人の殆どは都市部にいるのに対し、朝鮮人の多くは農村部にいるからだ
そして、人数的な割合が一番多くても3%強しかない日本人が
虐待をしたり、拉致したりするようなことができなかった

と当時朝鮮にいた日本人は語っている(朝鮮人の意見は後述)
何しろ、今の韓国人を見ても分かるように、民族意識と連帯感がすごく強いので、
1から3%に過ぎない日本人が拉致を行ったりすれば、日本人が安全に朝鮮で暮らせたわけがない。

創氏改名については、
きっかけは朝鮮人からの要望だったようです。
というのは、当時日本人・朝鮮人の多くは満州で商売を営んでいたりしました。
満州人は「中華思想」の観点から、戦争に負けた日本人はともかくとして、朝鮮人については差別的な対応をしていた。
このため、朝鮮人から、日本の名字や名前がつけられるようにしてほしい、という要望が上がってきたため、創氏改名の制度が作られたのだという。
ただ、上層部は強制的な意図は全くなかったのだが、地方に伝令が行く中で、中にはしつこく改名を薦める人がいたようです。しかしながら、日本名に変えなかったことで差別があったことはない。

当時は日本人と朝鮮人は仲良く暮らしていたそうです。
その証拠に、戦争が終わった後、引き上げる際に朝鮮側から不当な暴力を振るわれたり殺されたりすることなく、帰国することができたのです。


では、当時の朝鮮人(現韓国)の意見はどうなのか、というと
一人は日本側の意見とほぼ同じだったものの、他の方々はだいたい以下のような意見でした。
・自分の周りの日本人は親切だったし、いじめや差別を受けたことなどない
・でも日本全般的には嫌いだ
作者は以下のように分析しています

欧米植民地の場合、現地の人は欧米の人とはみなされず、差別されて生きていた
しかしながら、欧米人としてみなされないので、彼らの文化自体は残った

朝鮮の植民地の場合、それは植民地というより併合であったため、朝鮮人を日本人に同化させていく動きになった
つまり、現地の人を日本人としてみなしていく方向に進み、差別をしない(なくしていく)ようにした
しかしながら、日本人として見做すということは、朝鮮の文化を奪い去っていく、と朝鮮人は感じた
ただ、現実的には創氏改名は強制ではなかったし、神社の参拝も強制ではなかった。
朝鮮の文化を廃絶するのではなかったが、彼らの「誇り」を傷つけたことは確かだろうと思う。
ここが、韓国の「反日」感情の源泉にある、と著者は言っている。

最後に、著者は朝鮮の太平洋戦争における徴兵について述べている
じつは、朝鮮において「徴兵」が開始されたのは、昭和19年、終戦の前年です。
それまでは朝鮮人の志願兵が戦場に向かっていた。
昭和19年以降、徴兵された人数は24万人強である。
昭和18年には、兵隊への応募数は30万人強であり、実際に採用されたのは6300人である。

何が言いたいのか、というと、応募数より徴兵された人数のほうが少ない
「強制された兵隊の人数」を「応募数」が上回るということは、
当時、故郷や家族を守ろうとして日本人と共に戦おうと思ってくれた人は多かった、ということになる。