その後、武田家は信濃に領地を拡大し、それに伴って勘助も大身となっていった。

天文十九年(一五五〇)七月に武田家は林(はやし)城(長野県松本市)の小笠原長時(ながとき)を攻め立て、越後へ追放した。さらに、同年九月、晴信は村上義清(よしきよ)の属城である砥石(といし)城(長野県上田市)を攻めようとしていた。

二年前の天文十七年(一五四八)の「上田原(うえだはら)の戦い」では武田軍が敗れており、義清は武田家の宿敵とも言える人物であった。

此度の砥石城攻めでも、武田家は苦戦を強いられていた。

攻めあぐめる武田軍に、村上義清が大軍を率いて本拠の葛尾(かつらお)城から救援に訪れ、城兵と援軍の間で武田軍は挟撃に遭い大混乱に陥ってしまったのである。

その時、手兵の五十騎を囮として用いて村上軍を引きつけさせ、その間に武田軍の形勢を立ち直らせたのが勘助であった。

武田軍は多くの将兵を失ったものの、勘助が各隊に反撃の策を伝達したことで、最終的に村上軍を押し返すことに成功したのであった。

この活躍を「まるで摩利支天(まりしてん)のようだ」と武田家中では誰もが讃え、勘助はさらに五百貫を加増され、八百貫の足軽大将となった。

武田家の重臣たちは自分の子どもたちに兵法を学ばせようと、子どもたちを勘助の屋敷にこぞって通わせ始めた。

天文二十二年(一五五三)、武田家はさらに信濃侵攻を進め、四月に義清を信濃から追放することに成功した。義清が落ち延びた先は、小笠原長時と同じく、越後の長尾景虎の下であった。

義清に泣き付かれた景虎は、義清の旧領を武田から取り返すことを目的に、同年九月に信濃へ出兵した。これが「布施八幡(ふせはちまん)の戦い(第一次川中島の戦い)」である。

長尾軍は川中島周辺の諸城を落として荒砥(あらと)城まで陣を進めたが、景虎はそれ以上進軍しなかった。

この頃、武田家だけでなく長尾家でも、決戦の地を川中島であると意識し始めていた。

勘助は決戦の際に武田の本陣となる城を建てることを晴信に進言し、その築城奉行に指名されていた。

そして、この地の豪族である清野家の屋敷を召し上げて改築し、新たに「海津(かいづ)城」を築き始めた。

この城は、武田家中で「名城」と褒め称えられ、後に城主を任された香坂虎綱(こうさかとらつな)は「決して作り直してはいけない。なぜなら勘助殿の智略の粋が集められているからだ」などと述べている。
 
しかし、この城は武田一族を葬るための勘助の罠だった。

確かに、丸馬出や三日月堀など勘助が花開かせた武田流築城術の極意が使われているが、戦乱には敵さない平城である。周囲には山々が聳えており、山腹からでも城内を簡単に見ることが出来るため、海津城に本陣を置いた武田軍の動きは全て敵軍に察知されてしまうだろう。

勘助は、この築城の旨を、善光寺を通じて景虎に知らせていた。

善光寺は戦乱に巻き込まれ、長尾と武田の板挟みにあっていたため、両者に通じていた。勘助は善光寺の馴染みの坊主に密書を渡し、以前から景虎と連絡を取ったのである。
景虎は築城中の海津城を攻めることはせず、越後へ引き揚げた。

ところが、海津城に疑問を持った者が武田家中に一人だけいた。

名は「真田源五郎(げんごろう)」、後の「真田昌幸(まさゆき)」である。まだ元服を迎えていない七歳の少年だ。

源五郎は、武田家の重臣である真田幸綱(ゆきつな)の三男であり、この年に甲斐へ人質として送られ、勘助の屋敷で兵学を学んでいた。

勘助が目を見張るほど軍略の才能を備え、勘助の推挙もあって、晴信の奥近習となり将来を嘱望されている。此度は見学を願い出て、築城現場に訪れていた。

「御師匠様!源五郎はここではなく、あの山に城を築きたい!この城は弱い!」

周囲の武田家中の者は「子供の言うことだ」と笑ったが、勘助はさすがに焦った。

源五郎の才能に惚れ込んだ勘助は、己の野望のことをすっかり忘れて、自分が知りうる全ての兵法を注ぎ込んでおり、源五郎は凄まじい軍才を発揮しつつあった。

「御師匠様!あの山は何と言う山なのだ?」
「あれは妻女山じゃ」
「ならば、あそこに山城を築けば良かろう!川中島も一望でき、街道を押さえているではないか!」

勘助はその妻女山に長尾軍を引き入れるつもりであったため、ジワリと冷や汗が吹き出してきた。

「妻女山は高すぎる。築城するには金も手間もかかるじゃろ」
「そうかのぉ。あそこに城を築かぬ理由がわからぬ。むしろ、敵に取られたら面倒では――」
「よし、源五郎!丸馬出と三日月堀について教えてやるぞ!」

源五郎の話を遮って連れ出し、何とかその場をごまかした。

天文二十四年(一五五五)―――。

武田軍と長尾軍は再び川中島に対峙した。

突如、武田家に味方した善光寺を引き入れるために長尾軍が出兵したことに始まる戦である。犀川(さいがわ)を挟んで、二百余日の対陣が続いた。これが「犀川の戦い(第二次川中島の戦い)」である。

この時、晴信は決戦を避け、今川家の仲介で和睦を結び、両軍は撤退をした。
和睦によって、犀川の以北は長尾が、以南は武田が治めることとなった。

今川家で和睦の段取りを進めたのは雪斎であったが、これが最期の仕事となり、正式な和睦が締結される前に、雪斎は息を引き取った。勘助は駿河からの早馬で、雪斎の死去の報せを受けた。

―――雪斎様の死をもって、武田は全力を尽くして信濃を攻め取る。そして、今川との同盟を破棄して駿河に攻め込む。

晴信が武田一族を総動員して、景虎との決戦に持ち込む機会が迫ってきていた。

和睦後、川中島にわずかな平穏が訪れていたが、弘治(こうじ)三年(一五五七)四月に長尾軍が再び川中島へ兵を進めた。武田家が和睦を一方的に破棄するような動きを見せたためである。

この時も晴信は武田一族を投入せずに決戦を避けたため、両軍は撤退した。これが「上野原(うえのはら)の戦い(第三次川中島の戦い)」である。

この時、勘助は北信濃の豪族を味方につけるための使者として派遣されていた。

その派遣先の一つが、計見(けいみ)城(長野県木島平(きじまだいら)村)を拠点とした市河家であった。
勘助は当主の市河藤若(とうわか)に面会し、晴信からの書状を手渡し「援軍を送るところである。引き続き武田家に味方するように」という旨の口上を述べ、屋敷を後にした。

その帰途、日が沈んだ後に、勘助は善光寺へ立ち寄り御堂に足を運んだ。

御堂の中には一人の青年武将が、勘助の到着を待ち望んでいた。
二十八歳となった長尾景虎である。

「お久しぶりじゃ!これはご立派になられた」
「これは晴幸殿!お懐かしゅうございます」

一通りの挨拶を踏まえ、本題に入った。

「間もなく武田は決戦に臨むのでしょうか」
「そのはずじゃ。先年、北条とも同盟を結び、後顧の憂いはなくなり、信濃侵攻に専念しておる。晴信が一族を投入したその時こそ決戦の時じゃ。舞台は無論、川中島」
「我が長尾軍は精強にございますが、敵ながら武田軍も我が軍に劣りませぬ。同数の兵力ならば、こちらも大きな損害を受け、武田一族に大きな痛手を与えることは難しいのではないかと思うのですが、何か策がございますか」
「虎千代殿、次に川中島へ来た時は妻女山へ陣を張るのじゃ」

妻女山は犀川や川中島の以南にあり、武田の領地に食い込んだ位置にある。ここに陣を張るということは、捨て身の戦法とも言える。

「ここに陣を張れば、晴信は長尾軍を潰す好機と捉え、決戦を決意するはずじゃ。そして、新たに築いた海津城に本陣を構える。ここまでの動きはわしが晴信に促す」
「城攻めをするには、こちらの兵が足りませぬが」
「城攻めの必要はないのじゃ。わしは海津城から妻女山への奇襲を献策する。奇襲を受けて妻女山を降りてきた長尾軍を迎え撃つためと欺いて、武田の本隊を川中島の八幡原に陣を張らせるのじゃ」
「私はその動きを察知して、奇襲隊が訪れる前に下山し、逆に武田本隊を奇襲するというわけですな!」

まるで越後での日々が再び訪れたかのようだった。

「決戦は、川中島に霧が浮かぶ朝じゃ。前夜には、武田の兵士たちにたらふく飯を食わせるつもりじゃ、虎千代殿のようにの」
「長尾名物の勝鬨(かちどき)飯(めし)ですか」

二人に笑みがこぼれた。

長尾家の日常の食事は一汁一菜の質素なものだったが、ひとたび出陣となれば、景虎は兵士を奮起させるために、飯を山のように炊き、山海の幸をふんだんに振る舞っていた。それを越後では勝鬨飯と呼んでいる。

「前夜の炊煙がわしからの合図じゃ。さて、軍議はこれまでじゃ。今宵は、山本名物の勝鬨飯はいかがじゃ?」

勘助は景虎どの軍議を終えると、持参していた酒と梅干しを取り出した。

景虎は、馬上でも飲酒するほど、酒に目がない。つまみはいつも梅干しである。
二人は夜明けまで飲み明かした。




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この小説は、

講談社さんの「決戦!本屋大賞」に応募した、

私の処女歴史小説です!



大賞は逃したものの、

編集部が選ぶ「有力作品」に選んでいただきました!



編集部の方がおっしゃる通り、

短編の中に山本勘助の生涯を詰め込むという、

無謀なことをやっています(笑)


全8章に分けて、拙ブログに掲載していますので、

お時間ある時に読んでいただき、

新視点の「川中島の戦い」を楽しんでもらえてば幸いです~。



またね。