永禄二年(一五五九)、晴信は出家して「信玄(しんげん)」を名乗った。
先年から甲斐には飢饉(ききん)が襲い掛かり、停滞した雰囲気が漂っていた。その飢饉を仏の力で救うという演出をするための出家であった。
―――決戦の機を飢饉などで失ってたまるか。
出家を促したのは勘助であった。そのため、勘助も信玄に倣(なら)った形で出家し「道鬼(どうき)」と名を改めた。由来は「弓矢の道の鬼神」。決戦に向けて、勘助の自信が漲(みなぎ)っていることがわかる法号である。
これに前後して、勘助の一番弟子である源五郎が、信玄の母方の大井家の支族である武藤家の養子となって元服して「武藤喜兵衛(むとうきへえ)」と名を改めた。引き続き、信玄の奥近習を務めている。
翌年、武田と長尾を決戦へと促すある大事件が起きた。
「桶狭間(おけはざま)の戦い」で今川義元が、尾張の織田信長によって討たれたのである。
義元の嫡男の氏真(うじざね)は凡愚であるため、義元の死を好機と見た武田が同盟を一方的に破棄して、近いうちに駿河へ攻め込むことになるだろう。
その前に、信濃を手中に収めておきたい信玄は、景虎との決戦に臨むことは間違いない。
そして、永禄四年(一五六一)の年が明けた。
まずは景虎が動いた―――。
二年前に上洛し、将軍の足利義輝(よしてる)から、関東の執政役である関東管領の上杉家の後継者として認められていた景虎は、関東を牛耳(ぎゅうじ)る北条家を攻めた後、鎌倉の鶴岡(つるがおか)八幡宮へ向かった。
そこで関東管領の就任の儀式を取り行い、正式に上杉家の跡取りとなり「上杉政虎(まさとら)」と名を改めた。
この時、武田家は同盟相手の北条家の要請に呼応して、北信濃へ出兵していた。
動員された武田軍には、当主の信玄をはじめ、嫡男の武田義信(よしのぶ)、弟の信繁と信(のぶ)廉(かど)、信繁の子である望月信頼(のぶより)、その他、穴山(あなやま)信(のぶ)君(ただ)、油川(あぶらかわ)彦三郎など武田一族が名を連ねていた。
勘助が待ち望んでいた武田一族を滅ぼすための決戦が、いよいよ勃発しようとしていた。
関東から越後へ戻った政虎は直ぐに川中島へと兵を進めた。
八月十五日に善光寺に着陣した政虎は、一万三千の兵を率いて翌日には妻女山へ本陣を据えた。
海津城の香坂虎綱から狼煙(のろし)によって報せを受けた信玄は、十六日に躑躅ヶ崎館から二万の兵を率いて出陣した。二十四日には川中島へ着陣し、二十九日に海津城に入って本陣とした。
海津城に入って以降、武田軍の軍議は紛糾していた。
―――決戦あるのみ!
軍議は主戦論一色となったが、肝心の信玄が決戦を避けようと言い出したのである。
しかし、勘助にとっては想定内の出来事であった。
「御屋形様、良き策がござる」
勘助の言葉に諸将全員が耳を傾けた。
「まずは隊を二手に分けるのじゃ。一隊は御屋形様が率いる本隊、もう一隊は妻女山への奇襲隊じゃ。見てみよ、妻女山の気を」
勘助が隻眼で妻女山を眺めると、諸将も妻女山へ目線を送った。
「長期の滞陣によって、兵の気は失われておる。いま奇襲を仕掛ければ、槍や弓も忘れ、慌てふためいて山を降るであろう」
勘助の軽口が、諸将の笑いを誘った。
「そして、八幡原で本隊が迎え撃ち、奇襲隊との挟み撃ちを仕掛け、長尾を討ち滅ぼすのじゃ。御屋形様、いかがじゃ」
信玄の言葉に注目が集まった。
「相分かった」
信玄のその一言で、軍議は決した。九月九日の未の刻(午後二時頃)であった。
すぐに奇襲隊が組織され、香坂虎綱や馬場信春(のぶはる)、飯富虎昌(おぶとらまさ)、真田幸綱などの武田家の中でも歴戦の強者たちが名を連ねた。その数、一万二千。本隊に残されたのは、武田一族を中心とした八千である。
隊の編成をしたのは、もちろん勘助である。優秀な武将たちを妻女山へ送り、手薄になった本隊を上杉軍に突かせ、武田一族を葬るためである。
戌の刻(午後八時頃)になり、海津城ではいつもより多くの兵糧米が出された。明日死ぬかもしれない将兵たちは、全ての米を炊いて腹に詰め込んだ。
その様子を妻女山から目撃した政虎は全軍に指示を出した。
「武田が奇襲を仕掛けてくる。今宵に山を降り、八幡原に陣を構え、逆に本隊を襲う。それまで一切、物音を立てるな」
亥の半刻(午後十一時頃)に上杉軍は妻女山を降りていった。
奇襲隊は子(ね)の半刻(午前一時頃)に海津城を発ったが、上杉軍は武田軍を欺くために陣幕や松明などを残して山を降り、雨宮(あめのみや)の渡しを通って千曲川(ちくまがわ)を渡りきっていた。
信玄の本隊は、寅の刻(午前四時頃)にいよいよ海津城を発ち、八幡原へ陣を張った。武田軍のわずか五町(約五四〇m)前方には上杉軍が既に陣を張っていたが、濃霧と閑寂に包まれていたため、上杉軍が眼前にいるとは知る由もなかった。
ただ一人、山本勘助を除いて―――
そして、永禄四年(一五六一)九月十日の卯の半刻(午前七時頃)を迎えた。
「それにしても、妻女山が静かでございます」
信玄の側に仕える武藤喜兵衛が、霧の中に姿を消している妻女山の方角を見つめながら首を傾げた。
信玄は、武田家重代の諏訪法性の兜をまとい、面頬を付けているため表情はわからない。傍らには妻女山への奇襲を献策した隻眼の山本勘助が杖を助けに立っている。
「慌てふためく長尾軍の悲鳴が全く聞こえませぬ」
日の出と共に徐々に霧が晴れ、武田軍の眼前の景色が広がっていく―――。
「こ、これは―――」
そこには武田軍にとって信じられない光景が広がっていた。いるはずのない上杉の大軍が、武田本隊を取り囲むように布陣していたのであった。
その瞬間―――
「かかれー!」
まだ立ち込める霧を一気に払うかのような政虎の咆哮が川中島に響き渡る。上杉軍の大軍が一斉に動き出した。
「謀(たばか)ったな、勘助」
信玄が勘助だけに聞こえるように呟いた。
その頃、奇襲隊は妻女山の上杉本陣が蛻(もぬけ)の殻(から)になっていることに気付き、山頂から八幡原を眺めると、両軍がまさに干戈(かんか)を交える瞬間であった。急いで山を降り、本隊の救援に向かった。
―――なぜ見破られたのか。
奇襲隊の諸将は全く想像が付かなかった。
「憎き信玄を討つのは今を除いてないぞ!皆の者、励め!」
政虎の大音声の背に上杉軍の先鋒が武田軍に襲い掛かる。
上杉軍の先鋒は、猛将として名高い柿崎景家(かきざきかげいえ)―――。
武田軍は浮足立ち、先鋒が一斉に崩れていった。
―――御屋形様をお守り致せ!
武田の諸隊は本隊を固めるように集結し、上杉軍の侵攻を食い止めようとするが、じわりじわりと本隊に迫られてきていた。
「油川彦三郎様、お討ち死に!」
「義信様の隊が壊滅!義信様、御負傷した御様子!」
「望月隊壊滅!信頼様が深手を負っております!」
百足(むかで)衆と呼ばれた武田家の伝令が、続けざまに本陣に注進した。
傍らにいる勘助は、自らの野望が間もなく達成される現実を噛み締めていた。
―――あとわずかじゃ。あとわずかで、わしの望みがついに果たされる。
「あそこだ!あそこに信玄がおるぞ!」
上杉軍がとうとう信玄の陣幕に迫ってきた。奥近習たちも刀や槍を持ち、戦闘に参加していった。
陣幕の中には、信玄と勘助だけが残された。
「御屋形様、ご覚悟くだされ」
「やはりそういうことであったか。危ないところであったぞ勘助、いや、勘助殿―――」
「勘助『殿』じゃと?」
「まだ気づかぬか?」
顔を覆っている面頬をゆっくりと外した―――。
「の、信繁様!」
勘助の隻眼が大きく見開いた。
「奇襲隊は御屋形様を狙わせるための謀だったとは、御屋形様も私も全く気付きませんでした。御屋形様は海津城におられますよ」
「なんじゃと!?」
「一族が討たれようとも、御屋形様がいる限り、武田家は滅びることはない。私が御屋形様の身代りとなろう」
その時―――
「ここにおったか!武田信玄!」
月毛の馬に乗った白頭巾の武者が、単騎で陣幕に突撃してきた。
「晴幸殿!見事な謀にございました!」
政虎は、その勢いのまま、床几に腰かける信繁に三尺の太刀を振り下ろした。
「政虎殿か!」
抜刀する間もなかった信繁は、手にしていた鉄の軍配団扇で受け止める。
初めの一刀を弾かれた政虎は信繁の脇を通り抜けた。剣も槍も持てぬ勘助はただ見守るしかない。
政虎はすぐに馬首を翻し、信繁に襲い掛かる。再び軍配団扇で受け止めようとした信繁だが、政虎の激しい太刀に軍配団扇を弾かれてしまった。
そして、次の一刀で袈裟懸(けさが)けに斬られ、信繁は血飛沫(ちしぶき)を上げて、床几から崩れ落ちた。
「武田信玄、討ち取ったり!」
「虎千代殿!」
信繁の首を取りに向かおうとする馬上の政虎を勘助が静止する。
「それは信玄ではござらぬ!」
「信玄ではない?どういうことだ?」
「それは信繁じゃ。信玄は海津城におる」
勘助は政虎を残念そうに見上げる。
「信玄に策が見破られたということですか!?」
「いや、見破ったのは信玄でも、信繁でもないようじゃ」
「では誰が!?」
「わからぬ―――」
辰の半刻(午前九時頃)を過ぎ、奇襲隊が八幡原へ到着し始めていた。
本隊と奇襲隊の挟み撃ちに遭ってしまう恐れがあったため、上杉軍は一斉に撤退を始めた。
信玄が籠る海津城をこれから攻め落とすことは無理である。政虎は信玄を討つことを諦め、馬首を北へ向けた。
「晴幸殿、私は一旦兵を引きます。大儀にございました」
政虎は陣幕を後にした。勘助は茫然自失の体であった。
―――わからぬ、一体誰が見破ったのか。
「御師匠様―――」
武藤喜兵衛が上杉軍を追い払い、陣幕へ帰ってきた。信繁の亡骸(なきがら)を目にして、寂しそうな顔をした。
「御師匠様がこのような事を企てるとは、思いもしませんでした」
「まさか源五郎が―――」
「昨日、出陣の直前に、信繁様に相談し、二人で御屋形様に進言いたしました」
「勘助が謀っていると」
「はい、確信は持てず、信じたくもありませんでしたが―――」
「よくぞ見破った、さすが源五郎じゃ」
「御師匠様にそう言っていただき恐悦至極にございます」
「しかし、これでお別れじゃな」
喜兵衛は勘助の謀を知った以上、そのまま捨て置くことは出来ない。
足が不自由な勘助は、この場を落ち延びることは不可能であり、残された道は一つだ。
「わしは謀反人として悪名が残るじゃろうな」
「―――私は、御師匠様が討ち死にしたとだけお伝えいたします」
謀を企てたとは言え、勘助は武田家の功労人であり、自分の恩師でもある。喜兵衛は勘助と共に、勘助の謀も葬ることを決意した。
「師匠想いの良い弟子をもった」
「お世話になり申した」
「わしは刀が持てぬ、介錯を頼む―――」
喜兵衛の刀が振り下ろされ、勘助の首が川中島に飛んだ。
〔終〕
------------------------------------------------------
この小説は、
講談社さんの「決戦!本屋大賞」に応募した、
私の処女歴史小説です!
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160317/20/yoshiteru-hasegawa/bc/95/j/o0800045013594761499.jpg?caw=800)
大賞は逃したものの、
編集部が選ぶ「有力作品」に選んでいただきました!
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160317/20/yoshiteru-hasegawa/fe/44/j/o0800142213594761506.jpg?caw=800)
編集部の方がおっしゃる通り、
短編の中に山本勘助の生涯を詰め込むという、
無謀なことをやっています(笑)
全8章に分けて、拙ブログに掲載していますので、
お時間ある時に読んでいただき、
新視点の「川中島の戦い」を楽しんでもらえてば幸いです~。
またね。
先年から甲斐には飢饉(ききん)が襲い掛かり、停滞した雰囲気が漂っていた。その飢饉を仏の力で救うという演出をするための出家であった。
―――決戦の機を飢饉などで失ってたまるか。
出家を促したのは勘助であった。そのため、勘助も信玄に倣(なら)った形で出家し「道鬼(どうき)」と名を改めた。由来は「弓矢の道の鬼神」。決戦に向けて、勘助の自信が漲(みなぎ)っていることがわかる法号である。
これに前後して、勘助の一番弟子である源五郎が、信玄の母方の大井家の支族である武藤家の養子となって元服して「武藤喜兵衛(むとうきへえ)」と名を改めた。引き続き、信玄の奥近習を務めている。
翌年、武田と長尾を決戦へと促すある大事件が起きた。
「桶狭間(おけはざま)の戦い」で今川義元が、尾張の織田信長によって討たれたのである。
義元の嫡男の氏真(うじざね)は凡愚であるため、義元の死を好機と見た武田が同盟を一方的に破棄して、近いうちに駿河へ攻め込むことになるだろう。
その前に、信濃を手中に収めておきたい信玄は、景虎との決戦に臨むことは間違いない。
そして、永禄四年(一五六一)の年が明けた。
まずは景虎が動いた―――。
二年前に上洛し、将軍の足利義輝(よしてる)から、関東の執政役である関東管領の上杉家の後継者として認められていた景虎は、関東を牛耳(ぎゅうじ)る北条家を攻めた後、鎌倉の鶴岡(つるがおか)八幡宮へ向かった。
そこで関東管領の就任の儀式を取り行い、正式に上杉家の跡取りとなり「上杉政虎(まさとら)」と名を改めた。
この時、武田家は同盟相手の北条家の要請に呼応して、北信濃へ出兵していた。
動員された武田軍には、当主の信玄をはじめ、嫡男の武田義信(よしのぶ)、弟の信繁と信(のぶ)廉(かど)、信繁の子である望月信頼(のぶより)、その他、穴山(あなやま)信(のぶ)君(ただ)、油川(あぶらかわ)彦三郎など武田一族が名を連ねていた。
勘助が待ち望んでいた武田一族を滅ぼすための決戦が、いよいよ勃発しようとしていた。
関東から越後へ戻った政虎は直ぐに川中島へと兵を進めた。
八月十五日に善光寺に着陣した政虎は、一万三千の兵を率いて翌日には妻女山へ本陣を据えた。
海津城の香坂虎綱から狼煙(のろし)によって報せを受けた信玄は、十六日に躑躅ヶ崎館から二万の兵を率いて出陣した。二十四日には川中島へ着陣し、二十九日に海津城に入って本陣とした。
海津城に入って以降、武田軍の軍議は紛糾していた。
―――決戦あるのみ!
軍議は主戦論一色となったが、肝心の信玄が決戦を避けようと言い出したのである。
しかし、勘助にとっては想定内の出来事であった。
「御屋形様、良き策がござる」
勘助の言葉に諸将全員が耳を傾けた。
「まずは隊を二手に分けるのじゃ。一隊は御屋形様が率いる本隊、もう一隊は妻女山への奇襲隊じゃ。見てみよ、妻女山の気を」
勘助が隻眼で妻女山を眺めると、諸将も妻女山へ目線を送った。
「長期の滞陣によって、兵の気は失われておる。いま奇襲を仕掛ければ、槍や弓も忘れ、慌てふためいて山を降るであろう」
勘助の軽口が、諸将の笑いを誘った。
「そして、八幡原で本隊が迎え撃ち、奇襲隊との挟み撃ちを仕掛け、長尾を討ち滅ぼすのじゃ。御屋形様、いかがじゃ」
信玄の言葉に注目が集まった。
「相分かった」
信玄のその一言で、軍議は決した。九月九日の未の刻(午後二時頃)であった。
すぐに奇襲隊が組織され、香坂虎綱や馬場信春(のぶはる)、飯富虎昌(おぶとらまさ)、真田幸綱などの武田家の中でも歴戦の強者たちが名を連ねた。その数、一万二千。本隊に残されたのは、武田一族を中心とした八千である。
隊の編成をしたのは、もちろん勘助である。優秀な武将たちを妻女山へ送り、手薄になった本隊を上杉軍に突かせ、武田一族を葬るためである。
戌の刻(午後八時頃)になり、海津城ではいつもより多くの兵糧米が出された。明日死ぬかもしれない将兵たちは、全ての米を炊いて腹に詰め込んだ。
その様子を妻女山から目撃した政虎は全軍に指示を出した。
「武田が奇襲を仕掛けてくる。今宵に山を降り、八幡原に陣を構え、逆に本隊を襲う。それまで一切、物音を立てるな」
亥の半刻(午後十一時頃)に上杉軍は妻女山を降りていった。
奇襲隊は子(ね)の半刻(午前一時頃)に海津城を発ったが、上杉軍は武田軍を欺くために陣幕や松明などを残して山を降り、雨宮(あめのみや)の渡しを通って千曲川(ちくまがわ)を渡りきっていた。
信玄の本隊は、寅の刻(午前四時頃)にいよいよ海津城を発ち、八幡原へ陣を張った。武田軍のわずか五町(約五四〇m)前方には上杉軍が既に陣を張っていたが、濃霧と閑寂に包まれていたため、上杉軍が眼前にいるとは知る由もなかった。
ただ一人、山本勘助を除いて―――
そして、永禄四年(一五六一)九月十日の卯の半刻(午前七時頃)を迎えた。
「それにしても、妻女山が静かでございます」
信玄の側に仕える武藤喜兵衛が、霧の中に姿を消している妻女山の方角を見つめながら首を傾げた。
信玄は、武田家重代の諏訪法性の兜をまとい、面頬を付けているため表情はわからない。傍らには妻女山への奇襲を献策した隻眼の山本勘助が杖を助けに立っている。
「慌てふためく長尾軍の悲鳴が全く聞こえませぬ」
日の出と共に徐々に霧が晴れ、武田軍の眼前の景色が広がっていく―――。
「こ、これは―――」
そこには武田軍にとって信じられない光景が広がっていた。いるはずのない上杉の大軍が、武田本隊を取り囲むように布陣していたのであった。
その瞬間―――
「かかれー!」
まだ立ち込める霧を一気に払うかのような政虎の咆哮が川中島に響き渡る。上杉軍の大軍が一斉に動き出した。
「謀(たばか)ったな、勘助」
信玄が勘助だけに聞こえるように呟いた。
その頃、奇襲隊は妻女山の上杉本陣が蛻(もぬけ)の殻(から)になっていることに気付き、山頂から八幡原を眺めると、両軍がまさに干戈(かんか)を交える瞬間であった。急いで山を降り、本隊の救援に向かった。
―――なぜ見破られたのか。
奇襲隊の諸将は全く想像が付かなかった。
「憎き信玄を討つのは今を除いてないぞ!皆の者、励め!」
政虎の大音声の背に上杉軍の先鋒が武田軍に襲い掛かる。
上杉軍の先鋒は、猛将として名高い柿崎景家(かきざきかげいえ)―――。
武田軍は浮足立ち、先鋒が一斉に崩れていった。
―――御屋形様をお守り致せ!
武田の諸隊は本隊を固めるように集結し、上杉軍の侵攻を食い止めようとするが、じわりじわりと本隊に迫られてきていた。
「油川彦三郎様、お討ち死に!」
「義信様の隊が壊滅!義信様、御負傷した御様子!」
「望月隊壊滅!信頼様が深手を負っております!」
百足(むかで)衆と呼ばれた武田家の伝令が、続けざまに本陣に注進した。
傍らにいる勘助は、自らの野望が間もなく達成される現実を噛み締めていた。
―――あとわずかじゃ。あとわずかで、わしの望みがついに果たされる。
「あそこだ!あそこに信玄がおるぞ!」
上杉軍がとうとう信玄の陣幕に迫ってきた。奥近習たちも刀や槍を持ち、戦闘に参加していった。
陣幕の中には、信玄と勘助だけが残された。
「御屋形様、ご覚悟くだされ」
「やはりそういうことであったか。危ないところであったぞ勘助、いや、勘助殿―――」
「勘助『殿』じゃと?」
「まだ気づかぬか?」
顔を覆っている面頬をゆっくりと外した―――。
「の、信繁様!」
勘助の隻眼が大きく見開いた。
「奇襲隊は御屋形様を狙わせるための謀だったとは、御屋形様も私も全く気付きませんでした。御屋形様は海津城におられますよ」
「なんじゃと!?」
「一族が討たれようとも、御屋形様がいる限り、武田家は滅びることはない。私が御屋形様の身代りとなろう」
その時―――
「ここにおったか!武田信玄!」
月毛の馬に乗った白頭巾の武者が、単騎で陣幕に突撃してきた。
「晴幸殿!見事な謀にございました!」
政虎は、その勢いのまま、床几に腰かける信繁に三尺の太刀を振り下ろした。
「政虎殿か!」
抜刀する間もなかった信繁は、手にしていた鉄の軍配団扇で受け止める。
初めの一刀を弾かれた政虎は信繁の脇を通り抜けた。剣も槍も持てぬ勘助はただ見守るしかない。
政虎はすぐに馬首を翻し、信繁に襲い掛かる。再び軍配団扇で受け止めようとした信繁だが、政虎の激しい太刀に軍配団扇を弾かれてしまった。
そして、次の一刀で袈裟懸(けさが)けに斬られ、信繁は血飛沫(ちしぶき)を上げて、床几から崩れ落ちた。
「武田信玄、討ち取ったり!」
「虎千代殿!」
信繁の首を取りに向かおうとする馬上の政虎を勘助が静止する。
「それは信玄ではござらぬ!」
「信玄ではない?どういうことだ?」
「それは信繁じゃ。信玄は海津城におる」
勘助は政虎を残念そうに見上げる。
「信玄に策が見破られたということですか!?」
「いや、見破ったのは信玄でも、信繁でもないようじゃ」
「では誰が!?」
「わからぬ―――」
辰の半刻(午前九時頃)を過ぎ、奇襲隊が八幡原へ到着し始めていた。
本隊と奇襲隊の挟み撃ちに遭ってしまう恐れがあったため、上杉軍は一斉に撤退を始めた。
信玄が籠る海津城をこれから攻め落とすことは無理である。政虎は信玄を討つことを諦め、馬首を北へ向けた。
「晴幸殿、私は一旦兵を引きます。大儀にございました」
政虎は陣幕を後にした。勘助は茫然自失の体であった。
―――わからぬ、一体誰が見破ったのか。
「御師匠様―――」
武藤喜兵衛が上杉軍を追い払い、陣幕へ帰ってきた。信繁の亡骸(なきがら)を目にして、寂しそうな顔をした。
「御師匠様がこのような事を企てるとは、思いもしませんでした」
「まさか源五郎が―――」
「昨日、出陣の直前に、信繁様に相談し、二人で御屋形様に進言いたしました」
「勘助が謀っていると」
「はい、確信は持てず、信じたくもありませんでしたが―――」
「よくぞ見破った、さすが源五郎じゃ」
「御師匠様にそう言っていただき恐悦至極にございます」
「しかし、これでお別れじゃな」
喜兵衛は勘助の謀を知った以上、そのまま捨て置くことは出来ない。
足が不自由な勘助は、この場を落ち延びることは不可能であり、残された道は一つだ。
「わしは謀反人として悪名が残るじゃろうな」
「―――私は、御師匠様が討ち死にしたとだけお伝えいたします」
謀を企てたとは言え、勘助は武田家の功労人であり、自分の恩師でもある。喜兵衛は勘助と共に、勘助の謀も葬ることを決意した。
「師匠想いの良い弟子をもった」
「お世話になり申した」
「わしは刀が持てぬ、介錯を頼む―――」
喜兵衛の刀が振り下ろされ、勘助の首が川中島に飛んだ。
〔終〕
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この小説は、
講談社さんの「決戦!本屋大賞」に応募した、
私の処女歴史小説です!
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160317/20/yoshiteru-hasegawa/bc/95/j/o0800045013594761499.jpg?caw=800)
大賞は逃したものの、
編集部が選ぶ「有力作品」に選んでいただきました!
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160317/20/yoshiteru-hasegawa/fe/44/j/o0800142213594761506.jpg?caw=800)
編集部の方がおっしゃる通り、
短編の中に山本勘助の生涯を詰め込むという、
無謀なことをやっています(笑)
全8章に分けて、拙ブログに掲載していますので、
お時間ある時に読んでいただき、
新視点の「川中島の戦い」を楽しんでもらえてば幸いです~。
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