Dance under the Moon 1 | Yoshitaka Blog. ~Dancer Life in Amsterdam~

Yoshitaka Blog. ~Dancer Life in Amsterdam~

2005~2009 NY、2012~2014 London、
2016~ now in Amsterdam。
UK Jazz Dance x Japanese Folk Art

 

1. Michael Jacksonを見て15歳でダンスを始める~24歳で渡米

 

2021年8月13日。日本ではお盆のこの日、僕はオーストリアの首都ウィーン南西に位置する山、シュネーベルクにいた。

その日、ウィーンに住んでいる弟と一緒に登り、山頂近くの山小屋に滞在した。 

夕食後に山小屋の外に置かれたデッキチェアに身を沈めた。稜線を駆け抜ける風に吹かれ、遠くから轟いてくる大気の音に耳を澄ませながら、夜空を見上げる。 

暗闇が深くなるにつれ、数え切れないくらいの星たちが空一杯に広がっていき、鋭く尖った三日月が、流れる雲を纏いながら空に輝き、浮かんでいた。

 

昔から、夜空に月を見つけるとつい観惚れてしまう。 満月でないどんな欠けた形でも、そのフォルム、光、模様をいつまでも見続けてしまう。太陽は眩しすぎるけれど、月はいつも静かにそれを許してくれる。

 

今まで世界中、色々な場所からその同じひとつの月を見上げてきた。いつもふと気が付けば空にそっと浮かんでいて、月を見ているそのわずかな時間、月を見つめる過去の全ての自分と今の自分が繋がるような、不思議な感覚にとらわれる。

 

 今年で40歳になる。 

 

この数字は自分にとって特別な意味を持っている。40歳になるまでにダンサーとしてものになるようになっていなければ、それで一生を生きる事は出来ないだろうと思ってきた。

正直今の自分がダンサーとしてものになっているのか、はっきり言ってわからない。間違っても、自分はものになった!なんて断言できない。ただそうなれるように、何が自分に必要か一生懸命考え、実行し、一日一日を積み重ね、後悔しないように生きてきた。

 

つくづく、よくここまで無事に生きてこられたものだと思う。それでこの節目で、今の自分がここに至った道のりを振り返ることが、自分にとって必要な気がした。そしてこれを読んだ人が、こんな人生もあるのかと、もし何かの参考になればと思い、ここに文章で残すことにした。 

 

初めて人前で何かを表現する、ということをしたのは小学生の時だ。小5か6の時、クラスのお楽しみ会の出し物で、なぜか無性に何かをしたくなり、友人を誘って漫才をした。自分で台本を作り、ハリセンなど小道具を作って何度も練習した。 

それを披露した時にみんなが笑い、楽しんでくれていたのがとても嬉しかった。 

 

中学に入り、部活中心の生活で過ぎていった中学3年の終わり頃、体育の授業で柔道と表現ダンスの選択授業があった。例年通り柔道を選択するつもりでいたら、友人が唐突に一緒にダンスをやらないかと言ってきた。最近見ているこのビデオが凄いから、とにかく一回見てみろと貸してくれた。

 

そこに映っていたのが Michael Jacksonだった。

 

まるで彼の周りだけ重力が違うような、人間離れした不思議な動きとキレ、圧倒的な存在感。人間の体でこんなことができるのかと衝撃を受けた。次の日から友人達と教室で、体育館で、彼のように踊りたくて夢中で練習した。家の畳の上で靴下を履いて何度もMoon Walkの練習をした。そして授業の発表で体育館で踊り、この時初めて人前で踊るということを体験した。

今思えば、その時に自分の体を使って何か表現するという喜びが、自分の中に小さな種のように生まれたような気がする。

 

その後、学校の進路相談アンケートで自分の将来について提出する際、人生で初めて将来について真剣に考えた結果、自分で何かを表現して 人に感動を与えられる人間になりたい、と思ったた。 

 

ちなみにダンスを始めるきっかけをくれた友人、瀧森は今ドイツにあるモダンダンスのカンパニーでプロダンサーとして活躍している。 

 

デュッセルドルフにある瀧森の所属するダンスカンパニーの劇場前

 

小さい頃から本を読むことが好きだった。物語の中に入り込んで、色々な人生を生き、色々な場所に行き、色々な人々に出会い、沢山の心震える瞬間を体験した。映画を見ることも同じ理由で大好きだった。

感動するたびに、それに出会えた今生きている喜びを鮮明に感じた。

その感動の記憶と、自ら何かを表現して見た人に喜んでもらえた時の感覚が自分の中で重なった時、自分の進むべき光の方向が見えた気がした。 

 

 

親の許しが得られず高校から東京に出ることは叶わなかったが、高校1年からオー ディションを受けて仙台の芸能養成所に入り、月2回高速バスで通った。高校のダンス同好会に入り学園祭で踊ったり、市内にあったダンススタジオ「スタジオS」に通った。同時に硬式テニス部にも入っていたので部活の後にスタジオに通った。

 

面白そうだったHip Hopだけ受けようとすると、代表の長谷川咲子先生に、 Michael Jacksonが踊りたいのならJazzとBalletもやりなさいと言われ、渋々全部のレッスンを受けた。そしてその事が、その後のダンス人生に大きな影響を与えた。

 

高校の文化祭でダンス同好会の本番前

 

高校卒業時、進学校だったこともあり、あまり深く考えずに東京の大学に入り上京しようと思っていて、結果大学入試を7つ受けて見事に全て落ちた。 

この時の感触は今でもよく覚えている。 

今まで安全に進んできたレールから突然弾き出され、もうどこにも道がないような 絶望感。

けれども半日落ち込んだあと、よくよく考えたら自分が大学に行こうとしていたのは、ダンスで生きられなくなった時の保険を掛けていたことに気が付いた。

 

そこで頭を切り替え、決心して逃げ道をなくし、ダンス、表現の道以外の選択肢をなくすことした。もうすでに高校の卒業式も終わった3月半ばだったけれど、 そこから専門学校の資料を請求し、まだ入学が間に合う学校を探した。

 

ちなみに最初に選んで電話した学校はもう締め切られていて、次に電話した学校で明日面接に来られるなら、と言われ、次の日に始発の新幹線で東京へ行った。そして面接を受け、無事4月から入学できることになり、学校を出たその足で近くの不動産屋に寄り、アパートを決めて秋田に帰った。 

 

4月、秋田駅前から夜行バスで出発する時、高校の友達数人が連絡せずに見送りに来てくれた。車外から叫ぶように激励してくれるみんなの声を聞きながら、僕は泣き、バスは走り出した。 

 

入学後、学校から徒歩2分のアパートのお陰で、朝の1限目が始まる5分前に起きても授業に間に合った。昼ごはんも家に帰って食べられて節約できた。そして朝から夜まで色々な授業を受けた。

正規の授業数だけでは全く足りなかったので、聴講の名目で様々なダンスジャンル、歌や演技など、他学科、他学年の授業にもどんどん参加した。そして本来1年生は受けることのできない2年生のダンス授業の中 に、Be Bop(UK Jazz Dance)があった。この出会いも、その後のダンス人生にとって特別な意味を持った。

 

先生のHorieさんは日本にBe Bopを広めた第一人者で、その初めての授業で衝撃を受けた。初めて見るUK Jazz Danceの激しいステップに圧倒された。

Jazzで踊るということ、そしてこのダンスはアンダーグラウンド過ぎて踊っている人があまりいないというのも、とても魅力的だった。

本場 UKのオリジナルダンサーの秘蔵ビデオを貸してもらい、その超人的なパフォーマンス、強烈なカッコ良さ、流れるように、自由に表現する踊りに強く心を惹かれた。 

それからはUK Jazz Danceが自分のメインのダンススタイルになった。 

 

2年間の専門学校を卒業して、その1年後に芸能事務所に所属してテレビや舞台、 バックダンサーなど様々な仕事をした。

そしてあるミュージカルの仕事をしている時に、リハーサルが休みの日、美容室で舞台用に髪を切ってもらう時間に、つい15分の遅刻をしてしまった。

そしてそれを事務所に報告しなかったことがばれ、その次に決まっていたバックダンサーの仕事から外されてしまった。

 

それは当時人気絶頂だったアーティストの1年間の大規模な全国ツアーで、それに合わせてバイトも全て辞め、1年分の予定を全て空けて準備していた。

それが急に無くなってしまった。

気持ち的にもどこか浮かれていたのもあり、かつて大学入試に全て落ちた時以来の絶望に襲われた。この時は数日間落ち込んだ。 

 

ミュージカル舞台に出演していた頃

 

しかしやはり、何か大きなダメージや喪失をした場合、何かそれ以上のものを取り返さないと気が済まない、という性格がこの時も自分を動かした。どうせ1年間の予定が何もないのなら、今あるお金を全て使って、海外へダンスの修行に出て自分を磨こうと思いついた。

そして行き先は、前に行った人からあの街には特別なパワーがあると聞いて、是非自分の目でそれを見てみたいと思っていた街、New Yorkに決めた。

 

 

 

(2021年に秋田魁新報WEB版に掲載されたコラムを一部改訂して再掲載しています)