11月16日
ももちゃんらしい晴れた空、いいお別れの会でした。
賀来千香子さんのあまりの美しさにくらくらした。それからTARAKOさんともはげましあった。
そして予定表に「献歌」とだけ書かれていたので、そして私の並びにB.B.クィーンズの人たちがいたので、「これは間違いない、あの、全くお別れにふさわしくない歌をやるんだ!もしマイクが回ってきたらどうしよう。え〜と、歌詞…ブタのブー太郎?」とか思ってドキドキしていたら、桑田さんが歌って全てを解決してくれた。かっこいいなあ。
追悼文
この文章をだれに向けて書くべきなのか、迷いました。
ももちゃんにあてるのだろうか?と。
でも、ももちゃんには私の気持ちはもうすっかり伝わっていると思います。
だから遺された息子さん、ご家族の方たち、スタッフのみなさん、そしてももちゃんのファンのみなさんに向けて書くべきなのだと思い至りました。
なるべく短くしますので、しばらくだけ、耳を傾けてください。
私は小説家になったほんとうのスタートのところで、対談のお仕事でももちゃんに出会いました。
年もほとんど同じで、日本中に注目されていたふたりは、すぐに仲良くなって毎週のように会うようになりました。
手をつないで、あの恐ろしい自分たちのブームの嵐の中をかけぬけたのです。
いつも私たちは疲れがたまると荻窪のスーパー銭湯に行き、風呂の中で、たとえば「檜風呂のあたりで3時ね」みたいな感じで裸で待ち合わせをして、ペンネームで呼び合うとすぐばれてしまうのでサウナの中ではひみつのあだ名で呼び合い、出ればお揃いのムームーを着てごはんを食べ、そのあとはももちゃんの家に行って、文字通り語り明かしました。
楽しく、あっという間に過ぎて行った確かな青春がそこにあったのです。
やがて彼女も私も荻窪ふきんから引っ越してしまい、ちょうどその頃、私はひょんなことから彼女の当時のご主人と大げんかをしてしまい、しばらくももちゃんから離れたのですが、赤ちゃんが産まれたときは嬉しくてすぐ電話しました。彼女は泣いて喜んでくれました。私はすぐに赤ちゃんに会いにいきました。
それからはお互いに会社を作り、うんと忙しくなったから若いときのようにれど、彼女の大きなオウムをあずかったり、いっしょに私の実家に行ったり、焼肉を食べに行ったり、ももちゃんのご両親に会って「吉本さんからも、あまりアイスを食べすぎるなって言ってください」とお母さんにお願いされたり、人生の節目節目に会っていました。
幼かったうちの子どもを連れていって「まるちゃんとトーマスとアンパンマンとスヌーピーがいっぺんに描いてある手描き豪華カレンダー」を見せてもらったりしました。小学生だった息子さんを待たずに夕方遠慮して帰ったら、息子さんが会いたかったと泣いて悲しんでくれました。
私の父に会ったことがあるももちゃんはとても義理堅く、私の父が亡くなったときもすぐにお花をおくってくれました。
そして、最後の数年は神様の計らいなのか、何回も会えましたし、かなり密にやりとりすることができました。
夜中まで飲んだり、しゃべったり、絵を見せてもらったり、変わらず小学生同士のように過ごしたけれど、いちばん違ったことはふたりの産んだ、もう大きくなった男の子が同じ部屋にいたことです。ふたりは若い頃の私たちと同じように、ゲームをしたり、お笑いの話をしたりしていました。
いつのまにかここまできたんだ、そして私たちはこれからもたまにこうして会えるんだ、そう思っていたのに。
その日は夜型のももちゃんに惜しまれながらも真夜中に帰ったのですが、うちの子がiPadを忘れてしまい、タクシーで引き返しました。
いつもはなんでもスタッフのうださんに「ミッちゃんやっといて〜」という、ぐうたらなももちゃんが、iPadを持って玄関の前までミッちゃんと息子さんといっしょに出てきてくれたのです。そういえばそういう人だった、と思いました。そういうところは人任せにしない人だったな、と。
闇の中で笑顔で立っているももちゃんは、白くてきれいで、変わってないなと思いました。あの日のままだなって。
ももちゃんの絵は、一見子どもの絵みたいなのであなどられがちですが、彼女はかけねなく天才でした。
ヨーロッパの香りがする独自の色彩感覚と、研ぎ澄まされた線。
彼女がカラー原稿を描くところを見ていると、確信を持って色をつけていて、まるで魔法のようでした。そしてすごいことに最後の最後まで、彼女はどんどん絵がうまくなっていきました。
ついさっきまでぐうたらしたりおしゃべりしたりゲラゲラ笑ったりしていた小猿みたいな彼女は、ペンを持つとすっと集中して、ほんとうに美しい大人の女性、絵の天才に変身するのです。
私は、その変身の瞬間を、もっともっと長い間見ることができると信じていました。
若いとき、いつも「かわいいけどちょっと意地悪なおばあさんになりたい、そのとき着る服まで考えてる、将来おばあさんになるのが楽しみだ」と言っていたのに。
ほんとうに残念です。淋しいです。
気が小さいのにどこまでもダイナミックで、かわいくずるがしこいのに小さい子みたいに純粋な優しさがあって、人生を大きな遊びのようにかけぬけていってしまったももちゃん。
会えばいつでも24歳の、恋愛や仕事の話をいつまでもし続けられた頃に戻れた私たち。
「ちびしかくちゃん」を読んで「馬車の運転手が最高だった」とメールしたら、
「タツオとあの馬車の運転手いいでしょう~!奴らに目をつけるとは流石だね(笑)私もあの馬車の運転手がチューと叫んで出発するとこが特にいいと思ってたんだ。」
と喜んでくれたももちゃん。
最後の最後に「ももちゃんはやると言ったことは絶対やる人じゃないか、今回も必ず治る」とメールした私に、
「私すごいね(笑)でも本当にいろいろありがとう。何度ありがとうって言っても足りないよ。私のありがとうがいっぱい届きますように!」
と返事してくれたももちゃん。
切ないけれど、なんといってもこのやりとりの中でいちばんすごいのは、もしかしたら自分が病気で死ぬかもしれない状況でもタツオと馬車の運転手のことを考えてるところだと思います。あなたはできますか?私は自信ないです!
彼女はほんとうに人生を子どもの心のままで遊びきって、笑い切って、しっかり生き切って、去ったのだと思います。
ももちゃん、さくらももこさん、私たちの時代に「ちびまる子ちゃん」を「コジコジ」を、そしてたくさんのすばらしい文章や絵を残してくれてありがとう。どこまでもクールでシュールで乾いた、ほんとうの笑いをありがとう。
あの偉大な才能を、これから引き継いで行く人たち、語り継いで行く人たちがいることを、願っています。
ももちゃんはほんとうに子どものような大きなエネルギーを死ぬまで持ち続けた人だったから、周りはたいへんだったと思います。そしてたいへんながらもそんなももちゃんといるのが最高に楽しかったと思います。私もそうでした。
ももちゃんがこの世のしがらみを超えて自由に描いた世界のあの偉大な創造性を、生きている限り、共に、ちゃんと伝えていきましょう。
遺されたご家族の方たち、スタッフのみなさん。どうかどうか元気で、幸せでいらしてください。特に息子さん、あなたは生まれた瞬間から、ももちゃんの全てでした。全身全霊であなたの健やかな人生を願っています。
そういうわけで、私たちは短い時間だったけど、あのすばらしい人と過ごせて、とても幸運だったのです。
それだけはかけねないほんとうのことなのです。
涙ではなく、笑顔で、彼女の偉大さを思い続けましょう。
ありがとうございました。
懐かしい人たちにも会えたし、ちびっ子たちが歌っていてかわいかったし、クムのすばらしい歌や美女軍団の踊りまで見ることができて嬉しかった。
そして家族と合流して、第三新生丸でお刺身を食べた。
実はひそかにちびまる子シャツを着ているんですよ!
Jr.さんの人柄が伝わってくる上に、異様にベースがうまく、いいライブだった
先においとましたら送られてきたものすごい濃い写真。左のあゆちゃんがものすごくうちの猫に似ていると思う
生きている限り、なるべく幸せに、楽しくね!
よい週末を…!