生きづらさを抱えた半生...

3年前、子育ても仕事も夫婦関係も
絶望的な状態となり八方塞がりに...


そこから流れが変わり、

離婚寸前だった夫婦関係は改善され、
the昭和の頑固だった旦那が
まるで人が変わったように優しくなり
どん底から奇跡的なV字回復✨✨

真の幸せな女のあり方、成り方を追求し、
その過程をブログに綴っています。

 

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引き続き、

アドラー心理学
「嫌われる勇気」第三夜後半。


ベルベル対人関係の基本である

"課題の分離"をさらに詳しく伝えています!



第三夜前半のお話しはこちら▼




良好な人間関係を結ぶには、
ある程度の距離が必要です。
近過ぎても、遠すぎてもいけません。




親が子どもを叱ってばかりでは、
心の距離が遠すぎてしまいます。
これでは子どもは
親に相談することさえできなくなるし、
親も適切な援助ができなくなるでしょう。




差し伸べれば手が届く、
けれど、相手の領域には踏み込まない。
そんな適度な距離を保つことが大切ですピンクハート




その一方で、、


他者の期待を満たすように生きることは、
ある意味では楽なものになるでしょう。
自分の人生を他人任せにしているのだから。




親の敷いたレールの上を走る地下鉄
ここに大小さまざまな不満はあるにせよ、
レールの上を走っている限り
道に迷うことはない。




しかし、自分の道を
自分で決めようとすれば、
当然、迷いは出てくる。




他者からの承認を選ぶのか、
それとも承認なき

自由の道を選ぶのか...





他者の視線を気にして
他者の顔色を伺いながら生きることキョロキョロキョロキョロ
他者の望みを叶えるように生きること。
確かに道しるべには
なるかもしれませんが、
これは非常に不自由な生き方です。




どうしてそんな不自由な生き方を
選んでいるのか...?
要するに、
誰からも嫌われたく

ないのでしょう。




嫌われたくないとの一心から、
全員に忠誠を誓う。
できないことまで
「できる」と約束したり、
取れない責任まで引き受けたり
してしまうことになる。




しかし、その嘘はそのうち
発覚してしまうでしょう。
そして、信用を失い、自らの人生を
より苦しいものとしてしまう。
嘘をつき続けるストレスも
想像を絶するものがありますガーン




これは、自分に嘘をつき、
周囲の人々に対しても
嘘をつき続ける生き方なのです。




他者の課題に介入することこそ、
自己中心的な発想なのです。
親が子どもに勉強を強要し、
進路や結婚相手にまで口を出す、
これは自己中心的な発想以外の
何物でもありません。




不自由な生き方を選んだ大人は、
いまこの瞬間を
自由に生きている若者を見て
「享楽的だ」と批判します。
これは、自らの不自由な人生を
納得させるために出た"人生の嘘"です。




ほんとうの自由を選んだ大人なら、
そんな言葉は出ないし、
むしろ自由であることを応援するでしょう日本国旗日本国旗





ほんとうの自由とはなにか...





アドラー心理学では、
「すべての悩みは対人関係の悩みである」
と考えます。
つまり私たちは、
対人関係から解放されることを求め、

対人関係からの自由を求めている...




すなわち、、



自由とは他者から

嫌われることである。



他者から嫌われることを
恐れないことである。






他者の評価を気にかけず、
他者から嫌われることを怖れず、
承認されないかもしれないという
コストを支払わないかぎり、
自分の生き方を

貫くことはできない...
つまり、自由になれないのです。





「私のことを嫌うかどうか」
は他者の課題です。
私をよく思わない人がいたとしても、
そこに介入することはできません。




「馬を水辺に連れていく」
ところまでの努力はするが、
そこで水を飲むか飲まないかは、
その人の課題なのです。




「幸せになる勇気」には、
「嫌われる勇気」も含まれます。




その勇気を持ったとき、
あなたの対人関係は一気に
軽いものへと変わるでしょうキラキラ




この夜の最後に...
「課題の分離」について、
哲人自身の父親との関係性について
語り始めました。




哲人は20代で母を亡くし、
父親との関係はかなり拗れていました。
そんなある日、
哲人が父親から逃れようと、
机の下に隠れるが、
引きずり出されて強く殴られたそうです。
しかも一発ではなく、何発も




アドラー心理学に出逢うまでは、
「あのとき殴られたから

関係性が悪くなった」
と、原因論的な発想をしていましたが、
目的論の発想になってから、
その因果律の解釈は完全に逆転し、




「父との関係を

よくしたくないために、

殴られた記憶を持ち出していた」

になったのです。




そのときの哲人は、
父との関係を修復しないほうが
都合がよかった。




自分の人生がうまくいかないのは、
父親のせいなのだと
言い訳することができた。
そこには、
封建的な父親に対する
「復讐」という側面もあったでしょう。




そこで、青年が疑問を投げかける。

「そのように自己分析したところで、具体的になにが変わりますか?子ども時代に殴られた事実は変わらないのですよ」



哲人は、、

「これは対人関係のカード

という視点から考えるといいでしょう。

原因論で、
『殴られたから、父との関係が悪い』
と考えているかぎり、、


今のわたしには
手も足も出せない話に

なってしまう。



『父との関係をよくしたくないから、
殴られた記憶を持ち出している』
と考えれば、関係修復のカードは
私が握っていることになる。

私が目的を変えてしまえば、
それで済む話だからです





それに対し青年は、、

「ほんとうに心の底から

そう思えるものでしょうか?」




哲人は、、

「そこで、課題の分離です。
私が関係修復の決心をするにあたって、
父がどんな態度をとってくるか、
私のことをどう思っているかなど、
ひとつも関係なかったのです。


たとえ向こうに、

関係修復の意思がなくても

一向にかまわない。

問題は私が決心するかどうかであって、

対人関係のカードは、
常に『私』が握っていたのです




多くの人は、対人関係のカードは

他者が握っていると思っています


だからこそ相手が自分のことを
どう思っているのかが気になるし、
他者の希望を満たす生き方をしてしまう。




でも、

課題の分離が理解できれば、

すべてのカードは自分が

握っていることに気づくでしょう。




哲人は「父を変えるため」に
変わったのではありませんでした。
それは、他者を操作しようとする
誤った考えだからです。



その結果として、
相手がどうなるかは分からない。
これも課題の分離です。

 

相手が変わることはあります。
でも、それが目的ではないし、
変わらないか可能性だってある。
とにかく、他者を操作する手段として
自分の言動を変えるのは、
明らかに間違った発想になります。



対人関係というと、
どうしても「二人の関係」や
「大勢との関係」をイメージしてしまうが、
まずは自分なのです。



承認欲求に縛られていると、
対人関係のカードはいつまでも
他者の手に握られたままになります。




人生のカードを他者に委ねるか、
それとも自分が握るのか...





最後に青年が質問する。

「結局、お父様との関係は修復できたのですか?」



哲人は、、

「もちろん、私はそう思っています。
父は晩年病気を患い、最後の数年は
家族による介護が必要でした。
いつものように、介護する私に
父が『ありがとう』と言いました。



父のボキャブラリーに
そんな言葉があることに驚き、
これまでの日々に感謝しました。
つまり、父を水辺に連れていくことまでは
やったつもりです。
最後に父は水を呑んでくれたと思っています」


第四夜へ続く...