映画『愛の流刑地』 | 水無月草

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BL好きな主婦のブログです。ネタバレしてます。

 

映画版は2007年、豊川悦司と寺島しのぶが主演。

 

少し前に観たんだけど

 

ミラ完結20周年で盛り上がってたもんで

 

時間を置いてしまった^^;

 

ドラマの方はリアタイで少し観た記憶がある。

 

岸谷五朗と高岡早紀が主演だった。

 

 

だいぶ昔の作品だけど、

 

なんで観てみようかと思ったかというと、

 

毎年恒例の作業が立て込んでるとき

 

適当にミックスリスト再生してたら

 

いつの間にか平井堅祭りになっていて、

 

本作の主題歌『哀歌(エレジー)』を聴きながら

 

数字とにらめっこする状況が頻発し、

 

若干の気まずさを覚えたりしたので(なんでよw)

 

そうだ、映画未履修だったなぁ…

 

と思って。

 

 

今でもつべのホーム画面によく

 

平井堅絶賛熱唱中のサムネがよく上がってくると

 

なんか視聴してしまう。

 

中毒性のある歌だと思う。

 

映像もなんかシュールというか、

 

ホラー展開になりそうで冷や冷やするというか…。

 

 

ともあれ物語ですよ。

 

私その、あらすじは知っているつもりだったんだけど、

 

記憶の中ではあの行為はプレイの一環だったんだよね。

 

うっかりタヒんじゃったと思ってた。

 

だけど実際は冬香がわりと積極的にタヒを望んでいたことに

 

驚いてしまった。

 

おいおいだいぶ話が違うな(゚Д゚) と。

 

こんな記憶違いが起こったのは、

 

たぶんなんだけど、

 

プリンとはいえせっかく好きな人とラブラブなのに

 

なんでタヒにたくなるのかが分からなかったからではないかと。

 

本作を象徴する台詞

 

「タヒにたくなるほど人を愛したことがありますか?」

 

てのもピンとこなかった。

 

人を愛することとタヒにたくなることは

 

一直線で結ばれなくないかな。

 

好きな人ができれば

 

その人と一緒にいたい=生きていたい

 

と思うのが自然で、

 

タヒにたくなるのだとしたら、

 

その愛が成就しないと分かったとか、

 

成就しているけど二人でその愛を貫くことが

 

できない絶望があるとか、

 

「愛している」と「だからタヒにたい」の間には

 

「愛している」以外の別の理由が入るはずなんだ。

 

つまり、

 

「愛しているけど〇〇だからタヒにたい」

 

が正しい構文ではないかと。

 

 

本作の場合、

 

「プリン」という道ならぬ恋であることが

 

まず大きな理由の一つになるのかな。

 

あと、

 

お互いの想いが絶頂に達した瞬間を永遠にしたい願望

 

もあると思う。

 

この願望に関しては、

 

プリンじゃなくてもこういう退廃的なことを考える人は

 

一定数いそうだなと。

 

これからの人生、先が見えてくると思いがちな気もする。

 

厨二病だと「一緒にタヒのう」になりがちだけど、

 

中年ともなると「私を56して」になりがちってことなんだろうか。

 

人間てなんとも厄介だ(´・ω・)

 

んで56しちゃった方は56しちゃった方で

 

自らを「選ばれたサツ人者」と称して満足するんだから

 

もう勝手にやってくれって感じっすね。

 

 

本作では嘱託サツ人は認められず、

 

サツ人罪として罰せられることになるんだけど、

 

歌舞伎役者だったら自サツ幇助になったりして…

 

とふと思うあたり、令和になってから観た甲斐があったと思う。

 

 

んで配役がまたすごくて、

 

冒頭で冬香の殺害容疑で村尾(トヨエツ)を逮捕する刑事役が

 

佐藤浩市と松重豊! まだだいぶ若い!

 

自首してるからそんなに捜査することないはずなのに

 

原作にはないとんでもないトリックでも

 

あるんじゃないかと期待しちゃったよ。

 

何もなくて無駄にガッカリしたけどな。

 

更に冬香の母親役が、リアル母の富司純子(゚Д゚)!

 

冬香が村尾の元に行くのを母親が見送るシーンとか

 

もう目のやり場に困ったよね。

 

 

こういう、いい大人が恋愛こじらせた物語は

 

ひと昔前によく映像化されていたけど、

 

今はもうここまでのことはできないだろうから、

 

わりと貴重な作品かもしれない。

 

こんな風に時代が変わるなんて、

 

当時は思ってなかったもんねー。