この世のだれもが。。。。。
2月17日の富士
2月3日録音を少しずつ始めています。八王子にある建物の地下室を借りて、録音機材、操作、監督は近藤達郎さん。
これまで近藤さんと6枚のアルバムをつくりました。
今でも近藤さんのことを「だいちゃん」と呼んでしまいます。
出会いから46年経ったか。。。
その出会いから20年後、アルバムつくりをお願いしました。それが2003年の「ここから」というファーストアルバム。
いまでも全く変わらぬ少年の瞳のだいちゃんは、世界に誇る素晴らしい音楽家ですから、やっぱり近藤さんと呼んだ方が良いとは思うのですが。。。
厳しく透徹したその人と向き合う私と私の歌。しっかり唄って弾いていこうと思います。
2月12日久米川すなふきんにて。
中川五郎さんとのライブ。オープニングは冨井祐輔くん。
今日読んだ新聞のコラムで、今から102年前に作られた「福島原町電波塔」の存在を知りました。
電波塔完成から2年後の9月1日、関東大震災が起こり、その電波塔から世界各地に知らせが発信されました。
すぐさま世界各地から救援物資が送られました。
チェコの新聞社にコラムを発表した人物がいました。
「日本で地面が振動したその瞬間、他の民族の足下の地面は振動しなかったとしても、私たちの地球は振動してひびがはいったのです。」カレル・チャペック
後にチェコの国民的作家と呼ばれるようになったチャペックです。チャペックははじめは国民新聞に在籍していたそうですが1920年代初頭、チェコスロバキア政府は共産主義運動への弾圧を強め、政府にあわせ次第に保守化していく国民新聞に不安を感じ、民衆新聞(リドヴェー・ノヴィニ)へ兄と共に移籍したそうです。。その後、死ぬまで民衆新聞に在籍し続けました。兄のヨゼフはナチの収容所で、カレルもまた肺炎で1939年に没しています。
関東大震災に寄せた小さなコラム。世界を大きく俯瞰し、しかも小さな島国の出来事を自分事として思い馳せるチャペックの精神。
今日の一曲目は「FORTUNE」を唄いました。
五郎さんのステージは、聴く私に息つく間も与えてくれませんでした。3曲を除いて初めて聴く曲ばかりです。息つく間がないのだけれど、ところどころに可愛い歌があります。私は五郎さんのユーモアが大好きです。
途中で、グラミー受賞したボニーレイットの話もしてくれました。
五郎さんは、元来、賞というものには興味がないけれど、ボニーのつくった曲がsong of the yearを受賞してとてもうれしいと。「just like that」という曲は息子の臓器を提供した女性のもとに、その心臓をもらった男性が訪ねてくるというストーリー。彼女がインタビューで、「曲作りが大切。ジョンプラインのようなソングライターの曲。自分も長く彼の曲を唄ってきた。」と。
帰宅してからずっと彼女のインタビューを見ています。
国際通りから小道に入り
2月16日下北沢FLOWERS LOFTにて。
松田岳二くんという私よりずっと若い世代のひとが声をかけてくれました。きれいなライブハウスに50人ほどの人たちがいました。
松田”チャーベ”岳二、鈴木健介そして私。
終わってからも気軽に話しかけてくれる人たちがいました。
戦争のこと、音楽のこと、さっき唄った私の歌のこと、、いろいろ。嬉しかった。
歌は、、聴く人の心に届いた歌は、聴いた人の心から新たな波動をつくりだします。
それを感じる時が一番幸せな時です。
2月17日5年ぶりの沖縄です。
那覇空港に降り立つと生温かな風。23℃。
Bar TAGのガーニーさん明美さんと去年亡くなった知り合いの話をしました。
犬山から、京都から、滋賀から、兵庫から大阪から、そして沖縄も遠くから近くから。店の中はチャンプルーです。
わざわざ那覇で会うことが嬉しいです。
ながいようさんも翌日は大阪なのに顔を出してくれました。そして東京で会う顔とはちょっと違うゆったりとした雰囲気で少ししゃべりました。
今夜と同じ顔ぶれでこの店で会うことはないのかもしれません。
ホテルに帰っても胸が温かいままです。
みなさん、ありがとう!
那覇の桜は盛りすぎ
2月19日首里アルテ崎山にて。
アルテ崎山の美也子さんは会わない間に大きな病気をしました。リハビリを続けて今はお手伝いをする人たちに恵まれて店に立っています。お連れ合いシンジさんも元気です。
今回一緒にステージをしてくれるハットさん、彼は小田原から沖縄に移住しました。小田原の時代も少し知っていましたが、今日は初めてゆっくりと話しました。良い友達に恵まれて仕事も音楽も楽しくやっている。その仲間の人たちも今日は一緒です。ありがとうございます。
懐かしい顔が集まってくれました。
遠い沖縄だけではないのですが、唄って動くというのは私のような者には大仕事です。それができるようになったのは呼んでくれて、場所を用意してくれて、時には車に乗せてくれ、また家に泊めてくれたり食事の心配までしてくれる人たちのおかげです。それは今夜目の前にいる人たちの中にもいます。そして聴きに来てくれた人たち。東京からもありがとう。
2月20日石垣カフェタニファにて。
那覇空港から小さな旅客機で40分。
機内は若いカップルが多く、昼時、着いたら何を食べようか、そんな会話が聞こえてきます。
那覇空港の滑走路へ向かう途中に旅客機とは違う種類の小型飛行機が並ぶ場所があります。
那覇空港は航空自衛隊の基地が併設されていて、海自、陸自の飛行機の格納庫もあります。
「カッケー!」と後ろの若い人がいいました。
小型で二人乗りの、鼻先が尖がった、銀色に日の丸の赤の飛行機。戦闘機なんだろうか?
迷彩色の大型のヘリコプターもありました。
金網の向こうの基地の中だけではなく、こうして駆け寄って触れるところに、戦争へつながるものがありました。
そして、私たちはこれから石垣島へ楽しむために飛びます。
私の乗るこの大きな旅客機は繰り返される戦争によって生まれた技術の子供の一人でもあるのか。。。
そういうことをじっと考えながら、石垣島に到着をしました。
「カッケー!」と叫んでいた若者もタクシー乗り場に消えていきました。
タニファには覚えていてくれた人たちが集まってくれました。
前回は来てくれた友だちが昨年亡くなったことを知りました。明るい彼女の不在は寂しいです。
それから病を乗り越えて、会いに来てくれた友だちがいます。もう好きだった京都や東北には行けなくなっちゃったね。。。でも私が島に来ればこれからもアエルネ。またね。
石垣島の石垣
2月21日たかしの店にて。
島では、遠いところからの人にも出会います。
今日も、茨城からの人がいました。「島で何をするの?」
「毎日歩いて、夜は飲み歩き、それだけ。」2週間、季節ごとに過ごすのだそうです。
たかしの店手作りのステージ小上がりに立って、2時間唄いました。
中に、初めて石垣で唄ったときに聴いてくれた人がいました。あれは18年前、すけあくろという良い店で。佐渡山豊さんに連れてきてもらったのでした。やっぱり石垣までやってきてよかったな。
じっくりと聞いてくださった皆さん、ありがとう!
2月25日大阪淀屋橋にて、「やなぎ一周忌」
デリシャスシスターズ、デイジーヒル、古川豪、辻井貴子、北村謙、当日参加はできなかったけれど木崎豊、そして私も声をかけてもらいました。
昨年2月6日、やなぎ君が倒れた知らせをもらって、私はそのまま北海道の旅に出かけました。雪道を歩きながら「かえって来いよ、生きていてね、元気な姿で会うんだよ」ブツブツと祈りながら。。。。
ほんとうはすでにやなぎくんは亡くなっていたのだけれど、その知らせを受けとったのは江別でのライブの直後。
今日の集いには、その夜に一緒だった阿知波一道さんが、北海道今金町から来ていました。
阿知波さんの姿を見たら蘇る思いが溢れてきてしまいました。昨年2月16日江別のライブ、やなぎ君が倒れたことは公になっていなかったから、阿知波さんにはライブ後にそっと話そうと思っていました。アンコールでなにを唄いましょう?ときいたら「トンネルの唄」と阿知波さん。それもクロウハンマーバンジョーで。なんだかここにやなぎくんがやってきたようでした。
その直後に届いた2月9日に亡くなったという知らせを阿知波さんと静かに分け合いました。
私は、一年経って、今日はさっぱりとした気持ちで唄おうと思っていたのですが、そんなこんなで予定通りにはいきませんでした。
今日の集いは、やなぎくんにふさわしい飾り気のない静かで温かなものだったと感じました。
中心者の片山明さんはじめスタッフをかって出たみなさん、
終始、参加した全員に丁寧に接していた貴子さん、
とっておきの話をそれぞれのポケットから出し合った人たち、そしてやなぎくんもおつかれさん!
近しい人が亡くなると、その人と小さな約束をします。
守れていないものもあるのだけれど、また新しく約束をします。やなぎくんとした約束は、躓いたり止まったりしながらも果たしていこうと思っています。向こう側からは全部お見通しですものね。
2月23日の空
2月26日和泉府中の花海にて。
昨日は受付、今日は付き添い、働き者の典子さんと4年ぶりの和泉府中へ。
花海の店主はすでに酔っぱらっていました。私のことも「姉さん」と呼びます。私は一人っ子なので、姉さんと呼ばれてちょっといい気分。
この店でしか会えない人たちがあります。
そしてちょっぴりさみしがりやの店主を支える良い仲間があり、温かな場所です。今日も唄うことができました。
アンコール曲にハーモニカをお客で来ていたクニさんにつけてもらいました。
終わってからちょっと練習の仕方を教えてもらいましたが、音色が圧倒的に違います。20年以上松田幸一アリさんのハーモニカ教室に通っているのです。20年か。。。
沖縄のおかげで飛行機に4回も乗った2月です。
鈴木亜紀の名曲「夕暮れ飛行」の歌詞に
【この世のだれもが幸せならと、殊勝なことを願ったりして】
地上を離れて少し高いところに行くと、私も同じようなことを思います。アポロの飛行士が青い地球を見下ろしながら、平和を祈ったように。
時々は鳥の目が必要だな。。。
たとえ飛行機に乗らなくても、それこそ、想像の翼を広げた鳥になって。
電波塔から受け取ったニュースを自分の言葉にして人々に伝えたカレル・チャペックのように。
2月23日の虹と雲
那覇の国際通りのビルの陰で見てしまった、路上生活者であろうお婆。
ビルの二階から流れてくるレゲエの爆音に合わせて美しいエイサーを踊っていた。壁に向かって。ひとり。本当に美しい踊りだった。
この世のだれもが。。。。