慶祐のつぶやき

慶祐のつぶやき

少しばかりでも誰かの幸せの応援が出来れば幸いに思います。

慶祐

嫌な事や苦しい事が起これば誰もが人生を生きるのが辛くなる時があるように思われる。 仏の教えには因果が説かれている。 


今、自分に苦しみが訪れているのは、自分の今までの行いにより結果を招いているという事だと説かれていたりする。


いわゆる自分の滅罪のためにその苦しみを受けるという事になるわけなのだが、それでも悩みはついてまわる事かと思われる。


その時に自分の心の整理をするのに大切な心構えとして、嫌な事が起こった時は自分の罪が無くなっていくわけなのだから、ありがたいという風な前向きな気持ちで前だけ向くようにすれば、意外にも嵐は吹き飛んでいくようにも思われる。


 とある古くからの信者さんは四代にわたりあちらこちらにもぶれずにお不動様を信心して手伝いをしてくださる方がいらっしゃられるのだが、その方に私はある事を尋ねた。 私はその方に「何を今までお不動様に願ってこられたのですか?」と尋ねた。 「それは、家族の健康のみです。」。と答えられた。


そこでふと思った。


その信者さんの家族は不思議なもので、様々な事はありながらも末長く家族が健康でいらっしゃられる事に気づきを与えていただいた。


誠に不思議だ。


と、改めて深く信心する大切さと目には見えない利益とは存在するのだな。と思う愚かな私でありました。


周りに気づかされながら今だに私は生かされている。


慶祐




本日は8/28日はお不動様、弁財天様の縁日になる。

お稲荷様を拝まれる方は基本的に弁財天様を拝まれる。

私は弁財天様が大好きだが、お稲荷様は嫌いだと言われる方がたまにいらっしゃられる。

それは、間違えだと自分は思われる。

宇賀弁財天様の頭には宇賀神様がいらっしゃられる。

宇賀神様🟰お稲荷🟰豊受様

といういわれがある。

つまり豊受様や宇賀弁財天様を信仰するならば、お稲荷様にも信仰する流れが自然なように思われる。

なので、私は弁財天様が好きだから、お稲荷様は信仰しませんといわれる方は自分はあまり信用できない。

自分は生まれた時から、お稲荷様が側にいてくださった。

祖母は若い頃は凄腕のオダイだった。

祖母いわく、私が生まれるまでは今の鎮守されるところに移動をしたくないとお稲荷様はお告げを出されたようだ。

私の生まれたての赤ん坊の姿を見てお稲荷様は微笑み喜ばれ、移動をしてください。と、祖母に告げられたようだ。

私は祖母のお告げではお腹に入ってすぐにこの子はお稲荷様の子で男の子であり、将来は後を継ぐ子になる。と、祖母はお告げを聞いたようだ。

あのお告げは本当かいなぁ?笑。と今だに思っている。笑

とまあ、そんな事を言い続けてきてもう今では四十才になる。

それが事実か嘘なんか、そんな事実はどうだっていいのだ。

ただ私がそれを聞いたら、なんだか嬉しいからそれでいい。

それを信じられた時から、私はお稲荷様の子であると素直に自分の中だけで思えたらいいのだ。

自己満足じゃないのか?

もちろん。そんなのは自己満足だ。

だからなんだ!

私が神であるとかいいはじめたら、それは勘違いがはじまりいかん事になるのだろうが、私が自分の中だけで信じて幸せになるのだから、それでよかったりする。

誠に信仰とは奥が深い。

私のような愚者にはそれぐらい単純の方がよかったりする。

みんな命あるものは大日如来、仏の子であるのだから。

皆、仏の子。

豊かであれ。幸せあれ。

慶祐


人生必死に生きていたら、何事も人のせいにしたくなる事がよく起こる。

あの人のせいで苦しくなった。

あいつのせいで苦しくなった。

常に人は思ってしまうものだが、実は常に自分が悪いのだ。

なぜなら、旦那や妻を選んだのあなただ。

おいしい話に飛びついて騙されてしまうのも我欲に負けて飛びついてしまうのも全て自分のせいだったりもする。

縁を持つも持たないのも自分。

だから、全て自分が悪い。

誰のせいでもない。

恩を着せたかったり、何か見返りを求めたりするのも一緒の事で常に自分が悪い。

また、人から騙されたとしても、悪く思われたり、悪く言われる事があったとしても、全く気にしない事である。

どちらにしても、良くなれば調子づいたと言われ、悪くなればあいつは天罰がくだった!とくだらん事を言い出すのが人だったりもする。

結局は豊かさというのは、心から。

暗い心の持ち主は何を満たしても物足りなくなる。

明るい心の持ち主は朝起きれた瞬間から命のありがたみに気づき朝ご飯を食べて感謝から入る。

という事は現状が苦しくても、自分次第の心でどこまでも感謝の気持ちで幸せや豊かさを感じる事ができる。

まあこんな綺麗な事を言っている私のような愚者には毎日に追われて感謝なんかできたもんじゃない。

そのような事に気づくから、心豊かになっていく。

心豊かになれば、そこには無数の宝が溢れてくる。

そうなっていけば、自然と物事が豊かになっていく。

祈祷でいわれる現世利益とはそのような気づきを与えていただける。

だから、神仏のご加護は偉大なように愚かな自分は思っている。

豊かであれ、幸せあれ。

慶祐



泣いてるはずなのに、たまに目から全く涙を流していない人を見かけたりする事がある。

何かしら目の病とかがあるならば別の話しにはなりますが、泣いたふりという行いは人の同情を誘いだし、周囲の人の心に響かせ何か思い通りにしてやろうという思いがあるから、肝心な涙が目からろくには流れてこないのだろう。

わんわん言うてるのに、ひどい時は全く雫が出ていない。

まあよくても、一滴、ニ滴、ぐらい。

いやいやわんわん言うぐらいなんだから、もっと大量に溢れてきてもいいだろうと自分は思う。

まれにこのような方をみかけてしまう。

自分が悪い事をしといて、心から反省をして涙を流して心からの謝罪が出来るような人ならば基本的に最初から人が不快になる事なんかしないはずだ。

それと一緒のように思える。

自分のしでかした事で泣くのは自分は信じがたい。

というより、私は全く信じない。

いやそんな軽い人を誰が信じるのだろうか?

あの人は泣いてるから優しい人だから、だとか、許してあげなくちゃ。だとか、そんな気持ちは自分に持ちあわせてはいない。

時に厳しく許さない姿勢をもってた方が相手によかったりする上、嘘の泣き真似演出を繰り返すのは相手の同情を誘い出しては忖度で何かしてやろう!!なんて、思っているものなんだから、嘘泣きができるのかもしれないように自分は思っている。

そのような方は必ずでっちあげがはじまるものだ。

思い通りならない。

が、しかし、ならないから人生。

これを受け入れた時から何かが変わるように思える。

にんじんはにんじんにしかならない。

大根は大根にしかならない。

大根がキャベツにはならない。

ただ、立派な大根にはなれる。

嘘に巻き込まれるのは誰もが勘弁だ。

そう思えて仕方がない。

慶祐






人を不幸しないのならば、後悔ないように自分がやりたいようにやればいいと思われる。

アインシュタインさんの残された言葉に、叩かれない人や批判されない人は何にも挑戦しない人である人だからだ。と聞いた事がある。

もちろん、挑戦をしない選択をするその考え方も別に間違えじゃないと自分は思う。

ただし、挑戦する人は叩かれる。

10ある正しい事をしてみても一つの失敗で批判される。

9ある正しい事をやってのけても、その9の正解を褒めてくれる人もそういない。

ならば、挑戦したいと思いなら、自分のやりたいようにやればいい。

やり切ってみたらいい。

自分の中に何か大切なものがあるならば、

小さな枠に捉われなくてもいいと思う。

人の幸せをよく思わない人や邪魔したい思考の人は変わらない。

変われるのは他者ではなく自分だけ。

妬む人はずっと妬み続ける。

人に変われと言っても変わらないから、自分が変わらないといけない。

失敗をして欲しいと思う人はずっと繰り返し負の感情を持ち出してしまう。

そんなの気にしない事。

やりたいからやる。

ただそれだけ。

ありがとう!と言われようと、

批判されようとも、

あれやこれを考えるだけ、

バカバカしい事であり、何事もふっきるだけ。

人生なんてあっという間。

自分のしたい事にベストを尽くして誰かの笑顔を見たら良き意味で自分にかえってくるだけであり、何かしらの形に捉われても、その形はあの世には持ってかえれないもの。

ただそれだけだと自分は!思っている。

豊かであれ。幸せあれ。

自分の心に仏あり。

慶祐





何事も楽観的に焦らず、

 

自分にできる事を一歩ずつ進んでいく事。

 

笑っていたらよかったりする事もある。

 

失敗は誰にでもある。

 

そういう時には笑って過ごすだけでも何事も良くなっていく。

 

あるお尋ねで私はひとりぼっちだという悩みを打ち明けられた。

 

鳥で例えれば、ツバメやスズメは群れを作る。

 

しかし、鷲や鷹は1匹で切磋琢磨して生きていく。

 

何が正しいのか?間違いなのか?

 

何も間違いはない。

 

自然に自分らしく生きていけばいい!

 

ただそれだけである!

 

それが、分かれば、自由な羽をつけて、自分らしく功徳を積んで飛んだらいいのさ。

 

そうやって、笑顔で過ごしたらいい!

 

まさに笑う門には福来る。だから、、、

 

慶祐

 

 

 

ある人の人伝えだったのだが、とある住職の弟子達が弟子同士で呪詛のかけあいをしている事を聞いた事があった。

 

指導者がしっかりしていなければ、そのような醜い争いを起こす事もあるようだ。

 

人は感情に生きてしまうから、そのような事も起きてしまうのだろう。

 

その指導者自身もすぐに人を落とし入れる事にしかエネルギーを注げない人のようであった。

 

他者に感情をぶつけては力で捻じ伏せるタイプの人のようだった。

 

その後、先代の時のような栄えがなくなっていったそうだ。

 

まさに、因果応報なのかもしれません。

 

自身が気に入らない事があれば、感情的になって策略を練り、つまらない意地や見栄の為に犠牲を増やしていく。

 

そのような人がいく先はきっと苦しみが待っているのだろう。

 

小さな世界で小さな呪詛をしてしまう。

 

指導者も学び、弟子達にちゃんとした事を教えてあげられたのなら、自分の感情という呪いにふりまわされる事もなく、自身の弟子達同士が呪詛をかけあって争いをする事がなくなったのかもしれません。

 

争いは修羅の世界。

 

同士が争いあっていたら、ろくな事がないのも当たり前の事だと思われる。

 

私は愚かな人だから、感情に流され失敗してきた。

 

浅はかな経験から物事は何事も感情的になれば長く続く事はないと考えている。

 

山は外から見ればとても綺麗だ。

ただ、山の中はそんな綺麗な場所ではなく険しい。

 

隣の芝生は青く見えてしまう。

ただ、実は一番青いのはそれぞれの自分の心であるように思われる。

 

環境のせいにしたり、誰かのせいにしたり、そういった愚かさや怒りという感情からは離れなければならないと自分は思っている。

 

いかなる理由があろうとも、感情的になった人の末路は哀れな事になってしまいかねないから、もったいないと思われる。

 

本来、感情的になる事、すなわち怒りという類の呪詛というのは、自身に向ける事が大切だと説かれている。

 

自身が怒りに染まってしまう自分自身に怒りを調伏(コントロール)していただくように仏様にお願いする。

 

正しい呪詛の使い方を知らない人は、ただ感情的になって身を任せて小さな世界で呪ってしまう。

 

自分で地獄の釜を開けているだけだと思われる。

 

これらは非常に残念な事だと思われる。

 

感情的になった瞬間から、綻びが生じ、物事を滅ぼしてしまう。

 

自身で取り返しのつかない事を招いてしまうのだ。

 

私も感情的にならないように改めて意識したい。と、

 

それらの話しを人伝えで聞いてから、自分は素直にそう思った。

 

本日もありがとう、幸せあれ。

 

慶祐

 

 

不安になるから、慢心がなくなる。

 

不安になるから、天狗にならなくなる。

 

不安になるから、努力をする。

 

不安になるから、用心深くなる。

 

不安になるから、不安にならない知恵を持つことができる。

 

不安な状態だからこそ、人の不安の苦しみも心から理解出来るようになる。

 

自分で自分が不安だと思っている状態ならば、まだまだ伸びていけるように思われる。

 

奢りや妬み、批判や悪口、富や名声、何かしらの執着が自分にあらわれてきたのならば、自分を見つめ直す事に専念した方がよかったりすると自分は思っている。

 

自分がどうあるべきか?

 

人は人。

 

人が喜ぶ顔には興味はあるが、相手が何をしていろうが、自分の知ったことではない。

 

何かに捉われはじめたのなら、何事も忙しく過ごしていた方が余計な事は考えなくていいと自分は思っている。

 

本日もありがとう。幸せあれ。

 

慶祐

 

 

 

 

 

 


この度、今年も星祭りを無事に迎える事ができました。

参拝ありがとうございました。

最近の私は思う。

小さな事からはじまる一歩が大切な事なので、

今あるご縁を大切に、一期一会を大切にして、

ゆっくり歩を進めたらいいなぁ。と、素直に今の自分は思っている。

井の中の蛙大海を知らず!という言葉があるが、

まさに私の事なんだろう。

私は私、

あなたはあなた。

弱さを知ってる人は実は強さを持ちあわせている。

威勢ある人は実は臆病な心を持ち合わせている。

何かを否定する人は実は誰よりも否定をおそれている。

人の失敗を忘れてあげられる人は実は精神性の強さを持ち合わせている。

誰がどうだ!とか、そんな事を考える必要性もなければ、時間などは自分にはない。

愚者の私なんかは目の前の方の悩みがなくなるように不器用ながらも一生懸命に無い知恵を絞り、祈り続けて努力をするだけだと思っている。

私のような愚者を、支えてくれる人たちがいるから今の自分は存在しているのだろうな、、、。

完成に生かされているだけである。

出来る限りに感謝を忘れず、後は神仏に委ねるだけであり、祈ってる時も生きてる時も寝てる時も神仏に委ね、出来る限りに神仏に抗わないように、身を任せていたらどうしようもない私でも少しはマシになっていくのだろうなぁ。と思うこの頃の私であった、、、。

自分は不器用な愚者ではあるが、本当にそう思う。

大難は小難に。

本日もありがとう。

みなさまに幸せあれ。









地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天

この六道を人はぐるぐると生きている事が説かれている。

地獄道に堕ちるのはいわなくても分かると思われる。

餓鬼道に堕ちる人は人に与えてもらうばかりで、ケチな心で人に与えられないので、結果的には人から与えてもらえなくなってしまう飢え苦しみの心の世界。

畜生道は私利私欲の野生のような動物の欲望の本能ばかりが優先して、人の気持ちを考えられない心の世界。

修羅道は人を許す事を忘れ、怒りに怒りを重ねてしまう心の世界。

人間道は男と女、欲と情欲の世界。

天道は欲望のほとんどが満たされてしまい、満足の気持ちから離れたくないので、悟りたいという心を忘れてしまう心の世界。

これらを、我々はずっと移り変わり生きている事が説かれている。

何処にいくも、悟りたいという気持ちさえ捨てなければ、いつかはこれらの苦しみから離れていく事が出来るのかもしれない。

が、しかし六道で起こる心の苦しみや痛みを知らないと六道から抜ける事もできないのかもしれない。

これらの苦しみから抜け出したいのならば、お釈迦様は六波羅蜜をお説きになられた。

施し、耐え凌ぎ、道徳を保つ、何事にも努力、穏やかに怒らない、知らない事を知らないと言わず、失敗の経験を重ねたりしたのならば、反省しては学ぶ事、いわゆる永遠不滅の幸せ=(悟り)に近づく六波羅蜜などを学び保つ事。

これらをしっかりと行えば、この六道を解脱(悟りの世界)にいける事が説かれている。

仏教の教え以外でも悟る人達はたくさんいらっしゃられる。これらを縁覚、声聞という。

六道の苦しみ。人は苦しみもがく。

だからこそ、愚か者の私は悟りたいと思う気持ちがわきでてくるのかもしれませんね、、、。

本日もありがとう。幸せあれ。

慶祐