《特別寄稿》平安貴族も食べた芋粥=実は粥ではなく高級デザート=サンパウロ在住 毛利律子 ブラジル | 私たちの50年!!

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1962年5月にサントス港に着いたあるぜんちな丸第12次航の同船者仲間681人の移住先国への定着の過程を書き残すのが目的です。

《特別寄稿》平安貴族も食べた芋粥=実は粥ではなく高級デザート=サンパウロ在住 毛利律子 ブラジル日報WEB版より (その2)

 

 

「五位の芋粥物語」

 平安時代、この「芋粥」の甘さに恋焦がれた一人の下級貴族・五位の想いを文学にしたのが芥川龍之介であった。主人公の「五位」とは平安時代の位階の事で、最上位の正一位から最下位の少初位下まで全部で30段階あり、詳しいことは、ここでは割愛する。
 芥川龍之介の短編小説には古典を題材にした作品として、「羅生門」「鼻」「芋粥」などがある。「芋粥」の元になる話は『今昔物語集』の巻二十六第十七で、平安時代前期(9世紀半ば)の頃を舞台としている。
 『今昔物語集』自体に登場する主人公は、若き藤原利仁である。利仁が正月の宴会で、家来に署預芋(ねばりの強い芋、長いも、山芋、等々の事)粥を振舞ったところ、下級貴族五位の者が「ああ、お腹いっぱいになるまで芋粥食べたい…」と呟いた。
 五位の立場では、滅多に食べられない当時のごちそうの芋粥を「飽きるほど食べたい」という願望を抱いていたのである。この言葉を聞いた利仁は、出身地の越前から署預を山のように集めて署預粥を作り、食べさせた、というのがあらすじである。
 それでは、芥川龍之介はこの話にどのように迫ったのか。
 時は、「平安朝と云ふ、遠い昔が背景になつてゐると云ふ事を、知つてさへゐてくれればよい。それは最高権力者・摂政藤原基経の時代」と始まる。
 主人公は、「五位」という男。「姓名を明らかにしたいが、実際、伝はる資格がない程、平凡な男」
 風采は、「背が低い。それから寒むそうな赤鼻と、形ばかりの口髭で、眼尻が下つている。頬が、こけているから、顎が、人並はずれて細く見える。一々、数へ立てていれば際限はない。五位の外貌はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上っていたのである」
 この男が、いつ、どうして、「五位」の位に就き、基経に仕へるようになったのか、それは誰も知らない。すでに四十を越していて、同じような役目を、飽きもせずに、毎日、繰返している事だけは確である。その結果であろう。今では、誰が見ても、この男に若い時があつたとは思はれない。
 「このような風采を具へた男」なので、周囲から受ける待遇は冷淡を極め、軽蔑され、鼻で笑われ、見下されていたが、当人は腹を立てた事がない。彼は、どんなにいたずらにも反応しないのである。何を云はれても、顔色さへ変えた事がない。悪さを繰り返すガキども(子供たち)から揶揄われ、悪態をつかれても、苦笑いするだけだった。
 では、この話の主人公五位は、唯、軽蔑される為に生れて来た人間で、別に何の希望も持っていないかと云ふと、そうではない。五位は「芋粥」に、異常な執着がある。当時はこれが、無上の佳味として、公卿の食膳に上せられていた。
 ということは、「五位の如き人間の口」へは、年に一度、臨時の時にしか食べられない。その時でも、食べられるのは少量である。そこで「芋粥を飽きる程食うてみたい」という事が、彼の唯一の願望になった。
 我は、芋粥食うを見果てぬ夢にしたかったのに…勿論、彼は、それを誰にも話した事がない。しかし実際は、その夢の実現のために生きていた。――人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまう。それを愚かと笑うものは笑え。ある日、五位が夢想していた事が事実となる。
 芥川は、「その始終を書くのが芋粥の話の目的なのである」、と断っている。
 或年の正月二日宴会の席でのこと。
 「大夫殿は、芋粥に飽き飽きした事がないそうだな」と、肩幅の広い、たくましい大男の藤原利仁から声を掛けられた。「お望みなら、私が嫌というほど食べさせようではないか」
 五位は、それを聞くと、慌あわただしく答えた。「いや……忝けのうござる」
 4、5日後、五位と藤原利仁は馬に乗り出かけることになった。五位は利仁に行く先を聞くが、答えてくれない。盗賊の出る地域まで来て利仁は、ようやく敦賀まで行くことを伝える。
 京都から敦賀まではとんでもなく遠く、盗賊がでる地域を二人で通ることに五位は不安で仕方がないが、利仁を頼りに進むしかない。そして、利仁の館に着く。
 その一間で寝ることになったが、五位は何年も「芋粥を飽きるほど食べたいと辛抱強く待っていたが、それが現実になりそうだ。何か支障が起きて食べれなくなったら良いが…」と惨めな思いで一晩過ごした。
 旅の疲れと気苦労で寝過ごしてしまった。雨戸を開けると、広庭で大勢が、大量の芋粥を巨釜で作っていた。そこはまるで、戦場か火事場のような騒ぎであった。五位は、そのさまを目の当たりにして、すっかり食欲減退してしまった。
 出来上がった芋粥を「どうぞ、遠慮なく召上れ」と言われても、一口も進まない。「何とも、忝うござつた。もう十分頂戴致しました。――いやはや、何とも忝うござつた」。五位は、しどろもどろになる。
 そして五位は、芋粥を食べる前の彼自身を、懐かしく思うのだった。それは、芋粥を飽きるほど食べたいという慾望を、唯一人で大事に守っていた、幸福な自分である。見果てぬ夢を叶えたいと強く思っていた時が、どれほど心が満たされていたことか――芥川は、以上の様に物語を締めくくっている。
 長年密やかに温めてきた自分の夢が、強引に一人の権力者の善意か、悪意か、いたずらか、によって現実になってしまった虚しさに、拉がれる五位の心がなんと痛ましいではないか。

古代・中世の芋粥の作り方

甘葛の作り方を書いた独立行政法人・農畜産業振興機構のサイトの一部(https://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_002756.html)

 

 最後に、五位が恋焦がれた「芋粥」の作り方は次のようなものである。
 味煎(「甘葛」の煎じた汁)一合に水二合を涌かして、署預(とろろ)の皮を剥いで薄く切り、さらさらと煮る(煮すぎないということ)。鍋は石鍋。食べる時には、小さい銀の尺子で盛って進める。銀の匙をつけるという説もあるとみえる。作り方も、食べる時の作法も、古代・中世、鎌倉時代まで類似している、という。
 以上のようにこの芋粥は、粥といえども、いわゆる「コメの粥」ではなく、山の芋、自然薯の類と考えられている署預(とろろ)が材料の、当時の貴重な甘味の進上品であったのだ。
 このデザートが、どのような場で振舞われたかというと、前述したように、正月の大饗宴や天皇即位式、節句祝いなどのフルコース料理の最後に供されていた、との記録が残っている。
 すなわち、古代・中世・鎌倉時代まで「甘さ」は貴重品であった。砂糖の輸入量が増大するのは室町時代末期と考えられ、甘葛煎が砂糖普及以前の甘味料であった。甘葛煎は、ツタからとった樹液(味煎)を煮詰めたもので、古代においては諸国から朝廷、天皇に進上されていた。
 一方、砂糖が始めて記録に登場するのは、『唐大和上東征伝』の天平勝宝六年(754)とされているが、古代の砂糖は甘味料ではなく、薬用であったと考えられている。それは、天平勝宝六年(754)、鑑真の第一次渡航積荷に「石蜜」「蔗唐」とあり、それは薬用の類であった。
 砂糖の輸入量が増大するのは、室町時代末期であり、大航海時代の幕開けによって貿易が発達し、南蛮貿易によってポルトガルなどの南蛮菓子が受容され、その結果、砂糖が甘味料として使用されるようになっていった。

 

【参考文献】
◎お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション “TeaPot”https://teapot.lib.ocha.ac.jp › record › files「芋粥の話」―有職故実から生活社会史へー古瀬奈津子)
◎青空文庫「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房、1968(昭和43)年8月