【2018年新春特集】料亭「青柳」の群像 交差するコロニアの生き様 (その2) サンパウロ新聞W | 私たちの50年!!

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1962年5月にサントス港に着いたあるぜんちな丸第12次航の同船者仲間681人の移住先国への定着の過程を書き残すのが目的です。

【2018年新春特集】料亭「青柳」の群像 交差するコロニアの生き様 (その2) サンパウロ新聞WEB版より


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◆気高い女給たち

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庭園には5重の塔や石灯籠も(中島さん提供)

 当時の演奏家らの報酬は最低給料の3~5倍。それでも、女給らの稼ぎとは雲泥の差。「2世の子で、お座敷を2つも3つも掛け持ちしちゃう子がいた。それで座敷に顔出してチップをもらうとどうするか、というとオレたちに預ける。そうすると、チップ一つがオレたちの(報酬の)一日分とかだったりするんだよ」と苦笑する。
 それでも「(女給が)体を売らなきゃいけないとかは、なかった」と広瀬さん。「働いている女給さん方もみんな立派だった」、「『青柳』はみんなが言うような変なお店ではなかった」という、通っていた1世男性の声もある。広瀬さんはこんな逸話も披露した。当時2世、3世の女性も働き始めていた「青柳」。「2世の若くて結構かわいいピチピチ」の女性がいたという。ミネイロと呼ばれていた常連の伯人男性が彼女に目をかけ、声を掛けた。
 「『家をやるからオレの女にならんか』って。ビルを何十軒も持ってる人で、家をやるって言っても、ビルまるまる一軒のことだよ。そしたらその女の子なんて言ったと思う。『Eu n縊』って。そんなの興味ないんだよ。金は働けばなんとかなったから」。
 続けて、「青柳」で働いていた女性たちの気高さを物語る話をもう一つ語った。60年代の終わりのこと。「青柳」によく通っていた野菜の仲買人の1世男性がいたが、「良い客だったけど、ある時、何百万ドルとかとにかくとんでもない額の借金をした」という。そこで女給の一人が小さなサロンに彼と行って、バンドのギタリストのベベートを呼んだ。「ベベートは弾き語りもできて、そこでセレナーデ。これがまた良いんだけど、それも女が(代金を)持ってね。(客に)お金がない時にもそういうことをしてたんだ」と懐かしんだ。

◆酒巻氏の歓迎会も

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80年代に演奏する坂尾氏、島田氏、醍醐氏(左から)の様子を写した貴重な1枚(憩の園にて撮影、坂尾氏提供)

一方、坂尾さんが、「青柳」で開かれた数多くの宴会の中でも最も印象的と語るのは、69年にトヨタ・ド・ブラジルの社長に就任した酒巻和男氏を囲んでの歓迎会。同氏は、太平洋戦争の真珠湾攻撃で特殊潜航艇「甲標的」に搭乗し、最初の日本人捕虜となった人物。真珠湾攻撃で使用された特殊潜航艇5艇の乗員10人のうち、同氏以外9人は戦死し、後に「九軍神」とされた。
 そんな酒巻氏のブラジル入りを歓迎しようと集まったのは、元特攻隊員で、ブラジルの有機農法の第一人者の続木善夫氏、岡田元少尉、蒔田(まきた)元上等飛行兵曹に、日本海軍将校の親睦・研究団体「水交社」のOB、日本海軍のOB会の「櫻花会」のメンバーら。
 「僕は、YCC(横浜クルージング・クラブ)にあった横須賀鎮守府管轄の学徒訓練所で10日間、海軍の麦飯を食って、精神棒で鍛えられた経験があったので、端くれの座に参加させてもらった」と振り返る。「印象に残っているのは、誰一人、一言も、真珠湾攻撃の話は口にしなかったこと」と坂尾さん。米軍の捕虜として生き残ったことや、日本に帰ってからの精神的な衝撃などをその場の全員が推し量ったのだろう。「海軍ってのは家族的なので、(そういう複雑な気持ちは)口に出さなくても通じるんだ」と語り、後に海上自衛隊の連絡士官として働き、2等海佐の称号も与えられた坂尾さんらしい、海軍への思いもうかがわせた。

◆日系社会に留まらぬ知名度

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映画「Se Meu D?ar Falasse」の「青柳」で撮影されたシーン、菊池啓氏(右)に女給ら(奥)の姿も(https://www.youtube.com/watch?v=YI29pOIro3I&t=380sより

 「青柳」は、こうした来伯者の歓迎会などの宴会場として、真っ先に選ばれる場所の一つだった。働いていた人の証言で、訪れた著名人として挙がった名前の中には、日本の俳優・東千代之介の名もあれば、70年8月に来伯公演を行った美空ひばりも食事をしにきたと言われている。
 「青柳」の晩年にはブラジル人の常連も付き始めるなど、日系社会に限らず、名が知られていたようだ。実は映画の撮影も行われている。ブラジルの有名女優Dercy Gonçalvesが主演を務めた、70年製作の映画「Se Meu Dólar Falasse」には、「青柳」の座敷で撮影されたシーンがあり、ラジオ・サント・アマーロなどでアナウンサーを務めた菊池啓(ひろし)氏が名女優Dercyと共演している。「青柳」の当時の女給らも2人映っていて、料理や衣装、茶器食器なども含め、当時の「青柳」の内装を記録した貴重な資料だ。
 「ゲイシャ・ハウス」や「カーザ・デ・パパイ」として、ブラジル人らにも名が広まった理由として、駐在員や伯国在住の1世、2世が仕事の接待でブラジル人を連れてきたことが始まりだった可能性も考えられる。
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同映画での、ブラジルの有名女優Dercy Gonçalves(左)(同ウェブサイトより)

1世男性Aさんは、61年頃から本格的に「青柳」に行き始め、仕事の取引先の外資系自動車会社の社長らの接待で「青柳」の座敷を貸し切ることもあったという。Aさんによると、大体一晩で代金が1万8000クルゼイロ。当時、新車一台が1万2000クルゼイロだったというのだから、車1台半分を一夜にして散財していたことになる。しかも「月に1回くらい」というのだから驚く。
 畳の座敷に三味線があって、踊りもあり、「ゴボウのきんぴらなど、(当時は)ブラジルでは見たことがなかった」そうで、「ガイジンさん(ブラジル人)にも評判は良かった。(他のブラジルのお店とは別の)変わった形で喜ばれた」と振り返る。