結果論は全てに非ず、“努力の有無”が重要である、と人は言う。
残念ながら「野口」にその言葉は無い。
「結果」が良ければ「努力をしたか、しなかったか、」の詮索は二の次となる。
なかなか結果が出ないけれど、彼奴(あいつ)は努力をしているから愛(う)い奴(やつ)だ、などという戯言(たわごと)は「野口」では一切聞かれない。
唯々、闇雲に体を動かしても駄目である。
“努力”という言葉の中には、“工夫”というものが含まれる。
知恵を働かせ、工夫(とTQC)をすれば物事は前に回転し、結果は必ず出る。
“努力”しているのに結果が出ないというのは、“努力”という言葉の間違った解釈に他ならず、結果を出す為の“努力(with TQC)”をしていないからに違いないのである。
「野口」では、例え“偶然”であっても“運”が微笑み、目標達成の暁には、これも能力の内と見做され、確りと評価を受ける。
そう、少なくとも「野口」の中では、絶対に…。
「野口」のその考え方を、矛盾あり、不公平で、差別を生むと言う人は「野口」に近付かない方が宜しい…。
でも、私の「野口」はそれで貫き通す。
結果が良ければ、働かなくても善い、とは決して言ってはいない。