先月は12km以上泳いだ。
2018年11月にスイムのログを取り始めて以来、最もたくさん泳いだひと月だったことになる。横浜WTSの時のような弱さと悔しさはもう2度と味合わうまい。その思いを胸にがんばったつもりだ。
それでも、先日の鎌倉ラフウォーターではまたしても自分の弱さをまざまざと見せつけられ、悔しさだけが残る結果となった。
体育座りをして眺めた材木座の景色は、今なおどうしようもない惨めさとともに目の前に横たわる。
7′29/400m。
これが受け入れなければならない現実かと思うと、非常につらい。スイムについてはこの2年間で、順調に記録が伸びたと我ながら思う。
しかしプールでのタイム向上にこだわり、いつの間にかそこで格好をつけることばかりに執着していたのかもしれない。そしていつの頃からか、OWSにおける大切な何かをなおざりにしてしまっていたようだ。
楽に、長く、安全に泳ぎ切ること。
この大前提を忘れ、トラブルがあればいつでも足がつけるプールのような感覚でOWSを泳いでしまってはいなかったか?
己の力を過信し、他の選手への敬意を忘れ、トライアスロンという競技への畏怖さえ失ってはいなかったか?
「もうオレには余裕だぜ」と、ナメてかかっていなかったか?
海の上で、慢心はキレイさっぱり剥ぎ取られる。丸裸の自分、実力だけが結果を呼び寄せる美しい世界で、ボクは極めて無力かつ弱小な存在であった。
昨日はそんなことを考えながらTACのプールを泳いだ。メインは200→300→400→500→600。
全て時計は度外視、己の呼吸だけに全集中。設定した距離を泳ぎきること。それをクイックターン縛りで泳いだ。
これからも、いや、これからは、常に海の上のひとりぼっちの自分を意識して泳ぎたい。
湧き上がる怖さに震える自分を救えるのは、乱れた呼吸に我を失う自分に寄り添って背中をさすってやれるのは、今日の自分だけだ。
周りは関係ない。
次のレースは10月の九十九里。
ここでミドルにエントリーできなかったのは、やはり天啓だったに違いない。