自分は弱い。その弱さを強く自覚しているから、強さを手に入れたくて自らを鍛えている。心身ともに自分よりも圧倒的に強い修羅を見ると尊敬するし、強さと覚悟を学ばせて頂きたくなる。修羅のほとんどは望んでというより、半ば自然と修羅の道を歩む運命だったような人が多い。


貧困、片親、いじめ、周りの環境。全てがリンクしているが、そう言った苛烈で悪なる無数の刃から身を守る為に自然と修羅の道に入った人が多い。マグマのような爆発的な怒り、抑えきれない不満、満たされない不自由さ、不平等不公平な社会への苛立ちと暴力的衝動。それに思春期と周りの環境があって破壊的衝動を加速させていく。


普通、そんな爆弾みたいな問題児を誰も止めない、誰も理解して体当たりで愛してくれない。だから行くとこまで行く。格闘家も実は半分以上は格闘技に出会って一応職業になって衝動をリングで合法的に満たして更生してるけど、マジで紙一重だし食えないやつは結局行くとこまで行く。格闘技業界はワルばかりだから、どんなワルでも先輩やコーチや会長からしたら全然ビビらないし、プロからしたら街のワルなんかみんな弱いし、更生して欲しいと思ってるから普通に接してくれる。ブレイキングダウンとはわかりやすいけど、ボクシング含めて格闘技は不良の最大の更生になってるのは間違いない。今も昔も。


フィジカルだけじゃなくて精神的に強い修羅はより一層尊敬する。やはり苛烈な環境に耐えて歯を食いしばって生き抜いてきた修羅は目つきも覚悟もナチュラルに違う。ナチュラルに生死感がぶっ飛んでる。本気で覚悟があるからその嘘のないまっすぐな言葉や行動が真剣に怖い。「やるならやります」とか本気で思ってるから言われたらガチで怖い。嘘じゃない言葉は迫力が違う。座った目でまっすぐこちらを見て、落ち着いた声で「やります」と言う。睨むでも威嚇するでも、脅すでもない。ただの決意表明。あ、こいつマジでやるヤツだ。と思える本物が100人に1人くらいいる。自分もそれくらいになりたい。


もちろん自分の「やる」は危なっかしいのじゃなくて、決めたこと、自分の目標を本当にやる。の方でビジネス的な話だけど覚悟論的には同じ。修羅にならなきゃなし得ない目標だと思う。古美術修羅にならなきゃ。


桜の時期があっという間に終わり、夢だったように散って行った。去るもの日々に疎し。そんなものだし、仕方ないし、それでいい。散って忘れ去られるからこそ美しいし、忘れられないようにバチバチにやってやんよ。と燃えることもある。




弱い私はどうしても本物の修羅に惹かれてしまう。阿修羅は色んな顔があって、心の中では誰より泣いている。怒りや憎しみ、暴力に満ちた自分を抑えたい、もっと平和に幸せに生きたい。でも、暴力で生きてきた。怒りが原動力となっていることも自覚していてそれが自分にとっては簡単で生きやすい。普通に生きる方法がわからない。でも、すごく普通に憧れてる。という葛藤に苛まれている。普通の人にはわからない感情だろうが、普通に平和に暮らせている人はすごく幸せだ。


怒り、憎しみ、悔しさ。は飛躍へのガソリンとなる。ここだけの話だけど、駆け出しの頃に舐められた記憶、人を下に見て上から偉そうにしてきたヤツのことは絶対忘れてないし、その怒りで頑張ってこれた。そいつらはもう視界にもいないし、頭をかすることもないくらい住む世界が違う。その人達はずっと変わらず同じ場所で同じことをしてる。そこは俺がすでにずっと前に通過した場所だ。仕返しとかなんとかなんて考えもしない。ライオンはダンゴムシを襲わない。


若い時は血の気が多かった。準修羅に近い時期もあった。本気でまっすぐだった。今にしては黒歴史だけど、あの爆発的なエネルギーや馬鹿ゆえの純な本気は今にして思えば凄かったし、取り戻したい。あのエネルギーと本気を今のクレバーな脳みそでコントロールできたらとんでもないことができる。自分ゃ賢い馬鹿になれ。と思う。


気合いが入ってるな本物はほとんどいない。なればこそ我が修羅となれば圧倒的な力で他を吹き飛ばせる突出した者になれる。修羅になりたい。今一度自分の中の修羅を呼び起こす必要がある。