[スミソニアン航空宇宙博物館別館 NASM. Steven F. Udvar-Hazy Center]晴嵐

14390 Air and Space Museum Parkway, Chantilly, Virginia 20151 U.S.A.

 

ワシントン・ダレス空港に隣接するスミソニアン航空宇宙博物館別館 NASM. Steven F. Udvar-Hazy Center には、戦後、占領地日本から研究のために輸送したもの等、日本陸海軍の航空機の大半修復して展示されている。

 

 

Aichi M6A1 Seiran

Aichi chief engineer, Toshio Ozaki, designed the M6A1 Seiran to fulfill the requirement for a bomber that could operate exclusively from a submarine. Japanese war planners devised the idea as a means for striking directly at the United States mainland and other important strategic targets. This M6A1 was the last airframe built and the only surviving example of the Seiran in the world.

展示している晴嵐(M6A1)は、最後に製造された機体(製造番号28、1600228号機)であり世界で唯一現存する晴嵐とのこと。

 

愛知県の工廠にあった機体をアメリカ軍が本国に持ち帰り、性能などの調査の上で、スミソニアン博物館(NASM Paul E.Garber Facility保管施設)に送られ、1989〜2000年に修復された状態で常設展示されている。修復には田宮模型から資金援助を、修復には当時整備担当をされた方も参加している。

 

晴嵐(M6A1)

愛知航空機「試作晴嵐」

全長10.6メートル、全幅12.3メートル

2式13mm旋回機銃×1

乗員2名

愛知熱田32型液冷倒立V型12気筒

800kg爆弾×1 or 魚雷×1 or 250kg爆弾を懸吊り

試作機・地上機(南山)を含め28機生産

製造番号28(1600228号機)

 

 

昭和17年5月、大日本帝国海軍はアメリカ東海岸都市など、重要目標に直接攻撃を仕掛けられる潜水艦搭載機(水上攻撃機/特殊攻撃機)の試作を愛知航空機に命じた。特型(潜特)と名付けられた大型潜水艦(伊号400型潜水艦)の建造も決まった。昭和18年11月に試作第1号機「17試特殊攻撃機」が完成、急降下爆撃と雷撃の両方が可能な潜水艦(伊号400型)搭載機は「晴嵐」と名付けられた。

 

 

晴嵐は浮上した同潜水艦からカタパルトで射出される。晴嵐は91式魚雷改三による雷撃/4庫の250キロ爆弾または800キロ魚雷による水平および急降下爆撃が可能であった、とのこと。

 

 

 

なお特型(潜特)と名付けられた大型潜水艦(伊号400型潜水艦)は、晴嵐を3機搭載することが可能な当時世界最大の潜水艦だった。伊-400の就役は昭和19年12月30日、伊-401の就役は昭和20年1月8日、伊-402の就役は昭和20年3月14日。伊400型の建造は戦況悪化で5隻に激減させたが、実際に完成したのは3隻のみ(伊400型の不足分を補うため、伊13/14の2隻を完成させている)。

 

 

伊400型の格納庫は内径3.5メートルの円筒形の格納筒。晴嵐は伊400型格納庫のサイズに合わせて折りたためた(主翼付け根部分で90度回転させて折りたたみ、水平尾翼も垂直尾翼も下方に折りたたむ)。フロートは機体とは別の格納庫に収納された。浮上とともに晴嵐が引き出され、カタパルトにセットし、主翼と尾翼を広げてフロートを取り付けて発射完了。訓練により、夜間にも関わらず晴嵐全機発進(3機目の発進)を20分以内に完了可能とのこと。

 

出典:野原茂「日本陸海軍爆撃機・攻撃機1930ー1945」P.171より抜粋

 

 

フロートを主翼下に配置したことで、機体下には大型爆弾と魚雷を搭載可能になる。フロートを切り離せば零戦並の560km/hを発揮する。晴嵐の生産数は28機。

 

 

 

(晴嵐の整備員がレストアに参加したので、こういった注意書きが再生されている)

 

 

パナマ運河奇襲攻撃のために編制された631空と第一潜水隊は、昭和20年1月20日、鹿島水上機基地(茨城)から呉水上機基地に移転、晴嵐による本格練成開始。以後、屋代島(山口)->福山水上機基地(広島)->七尾湾(石川)と移動。

 

戦況の悪化で攻撃目標をアメリカ東海岸から、大西洋艦隊の進出を阻止するためにパナマ奇襲攻撃案に変更したが、伊402が完成した頃は沖縄決戦直前。昭和20年6月上旬にパナマ奇襲攻撃案を棄却して、嵐作戦(ウルシー環礁奇襲計画)に着手する。

 

昭和20年7月23日頃、晴嵐を各3機=計6機を搭載した伊400/401は、大湊(青森県)を出航。南太平洋のウルシー環礁において、同年8月17日にアメリカ機動部隊への奇襲(特攻/神龍特別攻撃隊結成)を行うことになった(初陣)。晴嵐は米軍機に偽装塗装した、とのこと。

 

同年8月14日には海域へ到達。だが翌15日のポツダム宣言受諾で攻撃は中止され実戦には至らず。8月16日に第6艦隊より正式に帰還命令発令され、帰還中に晴嵐を全機海没処分。8月29日に伊400/401は米軍に拿捕され有泉司令は自決した。

 

 

 

 

終わり

 

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[スミソニアン航空宇宙博物館別館 NASM. Steven F. Udvar-Hazy Cent はいつの間にかリニューアルして、館内にSHAKE SHACKが出来ていた(・∀・)

 

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