[下関要塞/明治期]門司砲台
福岡県北九州市門司区門司3492番地(和布刈神社)
海正面砲台★早鞆迫門防禦:門司方面
門司砲台
起工:明治26年11月1日
竣工:明治28年7月31日
備砲:安式24センチ加農砲×2門(暫定)、27センチ加農砲×2門(予定)
標高:25メートル、19メートル
目的:早鞆追門防禦砲台の砲架を冒し湾内に侵入せんとする敵艦を要撃す。
廃止:大正15年8月廃止決定、昭和10年3月全部除籍
スイカ先生にご案内していただきました!
出典:陸軍築城部編纂『現代本邦築城史』第2部第3巻「下関要塞築城史」
出典:国土地理院 1948/09/24(昭23) USA-R390-4より抜粋、加工
門司砲台について明確な資料はないが、浄法寺朝美「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」によれば、門司和希刈神社の背後、標高20メートルの地(関門国道トンネルの人道孔付近)にある、とのこと。
安式24センチ加農砲2門が暫定的に置かれたが、砲座は簡単な胸土塁を廻らしたのみ。早瀬戸(下関海峡中600メートルの最狭部)方面を射撃する。遺構は何処にあるのか定かではない。門司砲台と門司電燈の補助建物は神社境内の山側に5棟、神社参道の両側に4棟を設置していたようだ。
門司電燈(90センチ可搬式射光機)
着工:明治28年4月2日
竣工:明治28年12月31
位置:門司砲台の東北方約70メートル、和布刈明神ヶ鼻の標高20メートル
用途:周防灘方面照射用
廃止:昭和10年3月大部分除籍(監守衛舎と堀井戸、機関舎のみ残存)
その他:砲台通路の背後に更に1本の交通路を設け、砲台敷地に入ることなく照明所を往来可能にした。電燈座や機関舎などの遺構は戦後の再開発で消滅している。
長谷弾薬本庫
着工:明治31年8月6日
竣工:明治32年3月31日
用途:古城山砲台と門司砲台の弾薬本庫
位置:古城山の東南約1.7キロの長谷峠(砂利山付近/標高50メートル)に火薬本庫・弾丸本庫を煉瓦造として建設した。他、ポンプ所・装薬調製所・炸薬塡実所があり、必要に応じて土塁で囲んでいる。遺構は戦後の再開発で消滅している。
廃止:大正2年4月20日除籍予定→大正14年9月28日一部除籍→昭和6年2月19日全部除籍
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門司砲台
砲座位置は和布刈神社背後の標高19メートル/25メートル地点。砲座は簡単な胸土塁のみ、と書かれている。関門トンネル(門司側)出入り口付近にあったと思われる(遺構は消滅)。
24センチ加農砲
出典:佐山二郎「要塞史」p.161より抜粋
関門トンネル門司側出入り口
背後の標高19m/25m地点に砲座が2門、設置されていたと思われる。その奥、標高30m地点に門司電燈が設置されている。
門司砲台は比較的平地にあり、昭和6年2月19日全部除籍ということからか、その痕跡はない。戦後、米軍による航空撮影の写真にも痕跡がない。資料も殆どないため詳細不明のままが現状。
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和布刈神社
境内に砲台跡の石碑がある。日本軍の砲台って神社仏閣に隣接しているものが少なくないように思う。
関門海峡が最も狭いところ、正面は山口県下関側。
「門司砲台と門司電燈の補助建物は神社境内の山側に5棟、神社参道の両側に4棟を設置していた」とのこと。山肌を平削した地が幾つかみられる。それっぽいものは確認出来る。
終わり
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下関要塞/明治期
明治政府は海岸防禦の要地として、①東京湾開門、②大阪紀淡海峡、③下関海峡、④対馬海峡と選定した。着工は東京湾が明治13年と早く、下関は対馬とほぼ同時期の明治20年、紀淡海峡は明治21年。
下関要塞は九州と中国地方の関門海峡周辺の山々を活用した陸軍の巨大な要塞。敵艦の海峡通過の防禦、敵艦が利用するであろう港湾の防禦、上陸兵の駆逐撃退をその目的に築城された。明治20年9月より要塞の建設が開始され、日清・日露戦争の戦闘配置、要塞整理による廃止、状況変化による新設など繰り返して終戦(敗戦)まで巨大な要塞で在り続けた。
日中戦争が始まった昭和12年、我が国の防空のために、3つの防衛司令部が置かれた。そのうちの一つが西部防衛司令部(本部は小倉)であり、九州地方と中国地方西部を管轄した。小倉地区には八幡製鉄所や陸軍造兵廠など重要施設があるため、それら防禦のために多くの高射砲と機関砲が配置された。
廃止になった明治時代の下関要塞の各砲台堡塁、ここにも新たに高射砲や機関砲は配備されている。
下記の砲台/堡塁など、陸軍築城部編纂『現代本邦築城史』第2部第3巻「下関要塞築城史」に書かれている順番で書き出してみた。
出典:陸軍築城部編纂『現代本邦築城史』第2部第3巻「下関要塞築城史」
海正面砲台★大迫門防禦:小倉方面
田向山砲台(手向山砲台)
起工:明治20年9月28日
竣工:明治22年3月31日
備砲:24センチ綫臼砲×12門(6座12門)
標高:70〜68m
廃止:大正5年4月14日に大部分の除籍、昭和13年9月8日全部除籍
笹尾山砲台
起工:明治20年10月26日
竣工:明治22年9月30日
備砲:28センチ榴弾砲×10門(5座10門)
標高:111メートル
廃止:大正5年4月14日に大部分の除籍、昭和13年9月8日全部除籍
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海正面砲台★大迫門防禦:彦島方面
田ノ首砲台
起工:明治20年(1887年)9月28日
竣工:明治21年(1888年)12月28日
備砲:加式鋼製28口径27センチ加農砲×4門(4座4門)→斯加式12速加4(大正8年)→27Kに復す(大正12年)
標高:16.85メートル
廃止:昭和8年廃止決定、昭和10年3月13日全部除籍
老ノ山砲台
起工:明治20年10月26日
竣工:明治23年1月31日
備砲:28センチ榴弾砲×10門(4座8門/2座2門)
標高:100メートル
廃止:昭和13年10月28日一部除籍、昭和15年2月備砲撤去、昭和17年6月26日全部除籍
筋山砲台
起工:明治21年(1888年)4月4日
竣工:明治22年(1889年)8月31日
備砲:26口径24センチ加農砲×6門
標高:40メートル
廃止:大正8年廃止決定、昭和10年3月12日全部除籍
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海正面砲台★早鞆迫門防禦:下関方面
火ノ山第1、第2、第3、第4砲台
起工:明治21年1月4日
竣工:明治24年2月28日
備砲:
(第1砲台)28センチ榴弾砲×4門(2座4門)
(第2砲台)28センチ榴弾砲 ×4門(2座4門)
(第3砲台)23口径24センチ糎加農砲×8門(4座8門)
(第4砲台)28センチ榴弾砲×2門(1座2門)、12センチ加農砲×4門(2座4門)、15糎臼砲×4門(2座4門)
標高:
(第1砲台)228メートル
(第2砲台)258.5メートル
(第3砲台)260メートル
(第4砲台)266メートル(28H)、262.5メートル(12K)、263.5(15H)
廃止:大正15年8月27日廃止決定、昭和10年1月(第1・2・4砲台)28H撤去、昭和10年3月12日全部除籍
海正面砲台★早鞆迫門防禦:門司方面
古城山砲台
起工:明治21年2月22日
竣工:明治23年6月7日
備砲:24センチ綫臼砲×12門(2座10門/1座1門×2)
廃止:大正15年4月14全部除籍
門司砲台
起工:明治26年11月1日
竣工:明治28年7月31日
備砲:27センチ加農砲×2門(24K応用)
標高:25メートル、19メートル
廃止:大正15年8月廃止決定、昭和10年3月全部除籍
古城山堡塁
起工:明治27年10月12日
竣工:明治28年10月31日
備砲:機関砲×4門
標高:158メートル
廃止:大正5年4月全部除籍
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下関地区陸正面堡塁框舎:下関地区
龍司山堡塁
起工:明治30年11月4日
竣工:明治33年2月3日
備砲:15センチ臼砲×2門、12センチ速射加農砲×6門、9センチ臼砲×4門、機関砲×4門
標高:283〜285メートル
廃止:昭和9年10月に12速K撤去、昭和10年3月12日全部除籍
一里山堡塁
・起工:明治28年(1895年)10月9日
・竣工:明治30年(1897年)7月1日
備砲:12センチ加農砲×4門、15センチ綫臼砲×4門、機関砲×4門
標高:107〜110メートル
廃止:昭和10年3月12日全部除籍
戦場ヶ野堡塁
起工:明治24年4月1日
竣工:明治25年10月22日
備砲:15センチ綫臼砲×4門、12センチ加農砲×8門、機関砲×4
標高:150〜154メートル
廃止:昭和10年3月12日全部除籍
金比羅山堡塁
起工:明治23年6月1日
竣工:明治26年4月30日
備砲:12センチ加農砲×4門、28センチ榴弾砲×8門、機関砲×4門
標高:64メートル
廃止:大正8年備砲は28Hのみ、昭和10年3月11日一部除籍(演習砲台で残置)
下関地区陸正面堡塁框舎:企救半島
富野堡塁
起工:明治26年3月9日
竣工:明治28年10月30日
備砲:15センチ綫臼砲×2門、12センチ速射加農砲×8門、機関砲×4門
標高:97.6〜98.6メートル
廃止:昭和7年3月全部除籍
高蔵山堡塁
起工:明治32年2月20日
竣工:明治33年12月27日
備砲:15センチ綫臼砲×6門、12センチ加農砲×6門、機関砲×4門
標高:273〜276.6メートル
廃止:昭和7年3月全部除籍
矢筈山堡塁
起工:明治28年8月21日
竣工:明治31年3月31日
備砲:9センチ加農砲×4門、15センチ綫臼砲×4門、機関砲×2門
標高:258.6センチ
廃止:昭和7年3月全部除籍
出典:陸軍築城部編纂『現代本邦築城史』第2部第3巻「下関要塞築城史」
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