[東京第一陸軍造兵廠遠江射場]①隧道・砲座(土塁外)
静岡県掛川市浜野
設置:昭和13年(昭和15年に東京第一陸軍造兵廠所属に改編)
目的:造兵廠で製造された火砲と砲弾の性能テストなど
接収:昭和13年(第1次接収)、昭和15年(第2次接収)、昭和17年(最終接収)
敷地:東西約16km、総面積984ヘクタール(主に現在の国道150号から海岸線までの海岸砂地帯。掛川市浜野地区から御前崎市池新田地区)。射場の主要施設は西端の浜野地区に集中。
人員:約100人(軍人は1人/残りは在郷軍人など)
出典:静岡県戦争遺跡研究会「静岡県の戦争遺跡を歩く」P.46、抜粋
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西端の浜野地区
出典:国土地理院 1946/05/22(昭21) USA-M142-A-5No3-6、抜粋
詳細は不明の陸軍遠江射場。火砲の性能向上に伴い、更に2度の土地の接収を行ったため細長い用地(射線)になった。性能実験をした砲は榴弾砲・加農砲・高射砲など。
敷地の西端(浜野地区)にある原点砲列(砲座)から、東の標的に向かって最初の3キロは観的所が500mごと、以降、観的所は1,000mごとに設置され、着弾を観測していた。7キロ地点と1万キロ地点には望楼があったようだ。
敷地の西端(浜野地区)には、中遠鉄道(昭和18年に戦時統制により静岡鉄道となる)から分岐して隧道の南まで延びる軍用軌道(軌間600mm)があった。軌道は戦時中も着弾目標である御前崎市佐倉に向けて延伸工事をしていた。戦後、静岡鉄道に払い下げられた(袋井〜藤枝間/静岡鉄道駿遠線)が、昭和45年に廃線となる。
遠江射場は戦後、米軍が半年間駐屯。全ての兵器を搬出した昭和26年に完全閉鎖された。昭和27年に在日米軍の射爆場として摂取する提案があったが立ち消え、射場跡に開拓民が入植が始まり現在に至る。
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射場の西端(浜野地区)の配置図
出典:静岡県戦争遺跡研究会「静岡県の戦争遺跡を歩く」P.48
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(16)隧道
土塁(砂が堆積した丘?)が海と平行してあり、これを貫通する隧道が設けられている。退避壕として使われたようだ。往時は爆風避けとかあったのかな?
何らかのスイッチ?
僅かだが電線の管も確認出来る
隧道を抜けると左に工場などがあり、直進すると砂丘。
砂丘側から隧道をみる
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隧道を抜けて左折すると幾つか工場(建物)などがある。その中に、当ブログで引用した地図には記載されていない(原点砲列の3基の砲座以外)八角形の24糎榴弾砲の砲座が1基ある。
昭和11年に制式化した96式24糎榴弾砲の砲座かもしれない。昭和11年7月に大阪工廠および大津川射場にて機能試験と射撃試験を実施している記録があるので、弾道性試験は遠江射場でおこなったのかな?
96式24糎榴弾砲
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では戻ろう。
トンネルを抜けたところ
トイレの壁に貼っている案内版
つづく
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名物は餃子(・∀・)
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