[奄美大島要塞]実久砲台①監守衛舎など

鹿児島県大島郡瀬戸内町実久

※後日、加筆します

 

実久(さねく)砲台

起工:大正10年8月11日

中止:大正11年3月31日

→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)

備砲:7.5速射加農砲×47年式15センチ加農×445式15センチ加農砲×4→克式15センチ加農×2門(昭和15年8月設置決定)

標高:102.2〜110.2メートル

任務:大島海峡西口海面より峡内に侵入せんとする敵艦艇の動作を妨害す

備考:昭和2年度に右砲側庫完成、貯水所×1増築。昭和5年度に繋船場増築。昭和9年度に観測所×1増築、火薬支庫×1増築。昭和18年度に93式探照灯×1、3年式機関銃を配置。

 

奄美大島要塞で実際に火砲が配備された砲台は2ヶ所しか無いが、そのうちの一つが加計呂麻島の西端にある実久砲台(もうひとつは奄美大島西端の西古見第1砲台)。最終的には大島海峡の西口を実久砲台と西古見第1砲台で挟み撃ち、大島海峡の東口は皆津崎砲台(車輪式の火砲と複廓陣地)と海軍のカネンテ砲台(旧安脚場砲台)で挟み撃ちする決定を下している。

出典:「現代本邦築城史 第2部 第15巻 奄美大島要塞築城史」

 

 

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大正9年8月の「要塞整理要領追加」で奄美大島要塞「実久砲台」の築城が許可され、大正10年9月6日に着工、当初の備砲予定は7.5速射加農砲×4門だった。これが7年式15K×4になり、昭和8年3月の要塞再整理要領大修正で45式15K×4に、昭和15年度に克式15K×2門の設置が決まり備砲された。昭和18年度に93式探照灯×1、3年式機関銃を配置。昭和20年7月の記録では15糎K×2門と車輪式の38式野砲2門が配備されている。

 

表だっての工事が中断中、様々な手段を用いて昭和2年度に右砲側庫完成、貯水所×1増築。昭和5年度に繋船場増築。昭和9年度に観測所×1増築、火薬支庫×1増築(手安弾薬本庫敷地中に構築)などの工事を行っている。

 

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繋船場

昭和5年度に繋船場増築

 

 

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監守衛舎

砲台を管理する砲台監守が住む建物で兵舎じゃありません(案内版では兵舎)。戦後、町営幼稚園として利用されていた。。

 

 

ハブ避けのコンクリート塀に囲まれ、往時は塀に片開きの扉があったようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

用具入れ

 

山側の角には国旗掲揚台

 

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実久砲台への軍道は明確。

監守衛舎から山へ伸びる道が軍道で、多少荒れている箇所もあるが概ね良好。掩体や散兵壕をみながら歩き、たまーーーに標識もあるので、注意深く行動すれば迷うことは少ないと思う、たぶん( ̄^ ̄)ゞ

 

 

 

貯水槽

実久地区には海軍と陸軍が設置されているため、要塞時代のものか昭和16年以降のものかは不明。

 

詳細不明の掩体

大きさは機銃座っぽいが判断は下せない。

実久の浜と繋船場はほぼ直下にある。

 

詳細不明の絵掩体②

 

タコ壺(散兵壕)

 

トーチカ、とされるもの

 

おおおおーーーーっと、標識が落ちている(。・ω・。)

 

 

つづく・・

 

 

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奄美大島要塞

大正8年5月の要塞整理要領と同年12月の防備要領で、台湾〜南西諸島〜父島のラインを太平洋方面における国防の第一線と定め、日本近海の奄美大島と父島、台湾の澎湖島を洋上第一線要塞として策定された。

 

奄美大島と澎湖諸島の要塞新設(と建設改編)は海軍側の熱望だったようだ。奄美大島と加計呂麻島の間の大島海峡は、水深が深く東西両側で外海に接続していることから、薩川湾が連合艦隊の泊地になっている(海軍の給水施設在り)。奄美大島要塞は、大島海峡における敵艦および敵機の攻撃に対し、海軍と相俟って大島海峡を掩護するのが主目的とした。

 

奄美大島では大正9年8月に陸軍築城部奄美大島支部が新設され、翌年7月から要塞の建設が着工、12月には全ての砲台が工事中になる。

 

だがワシントン海軍軍縮会議(大正10年11月〜11年2月)で海軍軍備制限に関する条約が締結されると、同年2月27日付け陸密第33号をもって、奄美大島要塞の砲台と付属施設の建設は全て中止になった。いずれの砲台も軍道、砲座(ただし砲床は未完)及び 一部の補助建設物等の構築で中止されている。大正12年4月に奄美大島要塞司令部が開庁。

 

史料によれば、昭和6年頃より防御営造物として国有財産に編入の手続きを経て、砲座に直接関係しない火薬庫や観測所などの施設が、災害復旧名目の補修工事等、様々な理由付けをしながら工事は行われていた。昭和8年3月に要塞再整理要領が大修正され、火砲の修正や与路島砲台の新設などが決定された。

 

以上、参考文献:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会「瀬戸内町内の遺跡2」および「瀬戸内町内の遺跡3」、「現代本邦築城史 第2部 第7巻 奄美大島要塞築城史」

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建設当初から実際に火砲が配備されたのは西古見第1/実久砲台のみ、の図

出典:「現代本邦築城史 第2部 第15巻 奄美大島要塞築城史」

 

出典:「現代本邦築城史 第2部 第15巻 奄美大島要塞築城史」

 

満州事変(昭和6年)で東アジア情勢の不安定さが顕著になると大島海峡は、輸送等の拠点として再度整備が進められることになる。他、様々な要因でワシントン海軍軍縮条約から離脱することを決定。昭和9年に条約預託者(アメリカ)に通告して自動失効させた(昭和11年)。

 

盧溝橋事件(昭和12年7月)を発端とした日中戦争契機に、陸軍は西古見第1/実久に火砲増強(昭和15年)、重砲兵連隊を編制して陣地構築を開始する(昭和16年11月)。建設当初から実際に火砲が配備されたのは西古見第1/実久砲台のみ。

 

海軍は奄美大島に大島水上基地(昭和16年8月)、海軍施設を防備する大島防備隊(昭和16年10月)を配備する。防備衛所や特設見張所、海面砲台(平射砲台)、防空砲台など次々と新設した。

大島海峡では海軍が軍備増強をしている。上記に挙げた以外にも、陸軍の奄美大島要塞の一部を移管して新設した海面砲台、機銃陣地、空中聴音所、大島軍需支庫の整備拡張など。古仁屋航空基地(海軍)は第931航空隊が航空基地の管理部隊に指定される(昭和18年1月)。昭和20年3月以降、同飛行場は南九州各地から沖縄に向けて飛び立った特攻機の中継地/不時着飛行場になった。昭和19年11月頃より第17/18/44震洋隊が配備された(陸軍も陸軍海上挺進第29戦隊を配備して震洋隊と共同運用)。

昭和19年3月22 日、台湾・南西諸島方面の戦備強化の作戦準備である「十号作戦準備」が下令される。徳之島、沖縄本島、宮古島、石垣島地区に飛行場を造成し、これを防御の核として防備態勢を強化する。同年5月に奄美大島要塞司令部は事実上閉庁、本部は徳之島へ移動。奄美群島の防衛は重砲兵第6連隊主力や独立混成第21連隊1コ中隊が担う。重砲兵第6連隊は、固定式28H×4・固定式15K×2・車輪式10K×2・ 38式野砲×7・機銃・探照灯×2など装備していたようだ。

 

喜界島・徳之島の航空基地防衛強化のため、大島海峡に配備された火砲の一部が移設される。海軍の古仁屋航空基地は機能強化され実用基地となる。昭和20年7月には海軍陸戦隊が編成された。

 

昭和20年7月頃の資料によれば、陸軍の重砲兵第6連隊は、安脚場陣地(安脚場砲台)を撤収してきた第3中隊の1個小隊野砲2門、重機関銃1丁、軽機関銃2丁)は古仁屋背後の高知山の頂上近くに坑道式陣地を構築。皆津崎(皆津崎砲台付近)に坑道式陣地を含む複廓陣地を構築。西古見砲台(備砲の28H×4)には第2中隊が守備につき、坑道式陣地を含む複廓陣地を構築。実久砲台は(備砲の15K×2)第1中隊がが守備につき、野砲×2を加えて陣地構築も構築した。

 

以上、参考文献:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会「瀬戸内町内の遺跡2」および「瀬戸内町内の遺跡3」、「現代本邦築城史 第2部 第7巻 奄美大島要塞築城史」

 

出典:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会「瀬戸内町内の遺跡3」

 

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安脚場砲台

起工:大正10年7月1日

中止:大正11年3月31日

→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)

備砲:7年式15センチ加農砲(または15速加)×4門→車輪付10センチ加農砲×4・3年式機関銃×2(昭和16年〜18年5月時点/昭和20年7月の史料では他地区へ移設済)

標高:(右2門)102メートル、(左2門)115メートル

備考:昭和2年度に左砲側庫も完成

※昭和16年に大半を海軍に移管。陸軍の野砲および機銃陣地(昭和20年7月頃に古仁屋方面に移転)、海軍の金子手崎防備衛所・海軍防空砲台・機銃陣地あり

 

実久砲台

起工:大正10年8月11日

中止:大正11年3月31日

→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)

備砲:15センチ速射加農砲×4門(*立案のみ)→23口径30センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→45式24センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→7年式30センチ長榴弾砲×4(*立案のみ)→28センチ榴弾弾×4門(昭和15年8月設置決定)

標高:102.2〜110.2メートル

備考:昭和2年度に右砲側庫完成、貯水所×1増築。昭和5年度に繋船場増築。昭和9年度に観測所×1増築、火薬支庫×1増築

 

西古見第1砲台

起工:大正10年9月6日

中止:大正11年3月31日

→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)

備砲:15センチ速射加農砲×4門(*立案のみ)→23口径30センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→45式24センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→7年式30センチ長榴弾砲×4(*立案のみ)→28センチ弾×4門(昭和15年8月設置決定)

標高:10.5メートル

備考:昭和7年度に観測所・火薬支庫を国有財産に受入れ昭和8年度に災害復蓄費で改築す。昭和10年度に薬莢庫を国有財産に受入れ同年度に修繕費にて改築す

※昭和16年11月に重砲兵聯隊第2中隊が西古見地区で陣地構築

 

江仁屋離砲台

起工:大正10年10月6日

中止:大正11年3月31日

→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)

備砲:15センチ速射加農砲×4(*立案のみ)→11年式75センチ加農砲×4(*立案のみ)→11年式7センチ加農砲×4(*立案のみ)→野砲×2と3年式機関銃×2(昭和18年5月)→撤収(終戦間際)

標高:49.8〜53.8メートル

備考:昭和7年度に軍道・繋船場・井戸を国有財産に受入れ、昭和10年度に観測所・油庫・職工宿泊所を国有財産に受入れ

 

皆津崎第1砲台

起工:大正10年11月21日

中止:大正11年3月31日

→(大正11年度以降に着手計画ゆえ未着工のまま中止、だが趨勢により計画通り起工/災害復蓄費または新営費から捻出)

備砲:23口径30センチ榴弾砲×445式24センチ榴弾砲(父島要塞大村第1砲台と交換)→7年式30センチ榴弾砲×445式24センチ榴弾砲×4←実際の配備は無し

標高:7.5メートル

備考:昭和2年度に火薬支庫増築。昭和7年度に軍道・繋船場・観測所・砲具庫を国有財産に受入れ昭和8年度に災害復蓄費または新営費で改築す。昭和8年度に第1砲台砲床構築。

※昭和16年に要塞重砲兵聯隊第6中隊が38式野砲×4と探照灯×1から成る陣地を構築。昭和19年秋に38式野砲×1と10センチ加農×2に再編成

 

皆津崎第2砲台

起工:大正10年11月21日

中止:大正11年3月31日

→(大正11年度以降に着手計画ゆえ未着工のまま中止、だが趨勢により計画通り起工/災害復蓄費または新営費から捻出)

備砲:7.5速射加農砲×4(*立案のみ)→11年式7.5センチ速射加農砲×4(*立案のみ)→11年式7センチ加農砲×4(*立案のみ)→38式12センチ榴弾砲×4と3年式機関銃×2(昭和18年5月*立案のみ)→38式野砲×1(穹窖砲台*第1か第2かは定かでは無い/昭和20年7月の史料)

標高:8メートル

備考:第1砲台の項に纏めて記載

 

西古見第2砲台

場所:西古見第1砲台内

起工:大正10年12月19日

中止:大正11年3月31日

→(大正11年度以降に着手計画ゆえ未着工のまま中止、だが趨勢により計画通り起工/災害復蓄費または新営費から捻出、ただし第1/第2の区別なく詳細不明

備砲:15センチ糎加農(敷地のみ)7年式15センチ加農砲×4(*立案のみ)→38式12センチ榴弾砲(*立案のみ)→38式10センチ加農砲×4(*立案のみ)→野砲×2と3年式機銃×2(昭和16年〜18年5月時点*立案のみ/昭和20年7月の史料では他地区へ移動?未設置?済)

備考:昭和10年度に第2砲台観測所を国有財産に受入れて修繕費にて改築す

 

与路島砲台

昭和8年3月に新設決定(未着工)

備砲:45式24センチ榴弾砲×4(*立案のみ)

備考:昭和19年11月頃から海軍の海面砲台、機銃陣地など構築

 

 

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