[奄美大島要塞]安脚場砲台②

鹿児島県大島郡瀬戸内町大字渡連(安脚場戦跡公園)

※後日、加筆予定

 

加計呂麻島の大島海峡の東口につくられた陸軍の砲台

昭和15年頃、敷地の大部分が海軍に移管された。海軍の防備衛所や平射砲台がつくられ、海軍の主要な防禦基地になった。

出典:国土地理院 1947/05/13(昭22) USA-M1001-125、抜粋・加筆

 

安脚場(あんきゃば)砲台

起工:大正10年7月1日

中止:大正11年3月31日

→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)

備砲:7年式15センチ加農砲(または15速加)×4門→車輪付10センチ加農砲×4・3年式機関銃×2(昭和16年〜18年5月時点/昭和20年7月の史料では他地区へ移設済)

標高:(右2門)102メートル、(左2門)115メートル

目的:主として大島海峡東口前方一帯の海面より大島海峡に対する敵艦艇の動作を妨害す 

備考:昭和2年度に左砲側庫も完成

※昭和16年に大半を海軍に移管。陸軍の野砲および機銃陣地(昭和20年7月頃に古仁屋方面に移転)、海軍の金子手崎防備衛所・海軍防空砲台・機銃陣地あり。

 

海軍は陸軍時代の設備を転用しているものも多く、区別がつきにくい。

 

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安脚場砲台は「渡連砲台」という名称で計画・建設が始まった。

 

大正8年12月時点での設置予定火砲は『23口径30センチ榴弾砲×4』だった。

出典:「現代本邦築城史 第2部 第15巻 奄美大島要塞築城史」

 

大正9年8月の築城部の編成改正で『15センチ速射加農砲×4)』になる。大正10年7月に名称を渡連砲台から安脚場砲台に変更、砲台の築城工事に着手した。

出典:「現代本邦築城史 第2部 第15巻 奄美大島要塞築城史」

 

だがワシントン軍縮会議で海軍軍備制限に関する条約が締結されると、大正11年2月27日付け陸密第33号をもって奄美大島(父島及び澎湖島要塞)の築城工事の中止した。安脚場砲台を含む奄美大島要塞全ての砲台で、軍道と砲座(砲床未完)及び一部の補助建設物等が構築されただけ、状態だったようだ。

 

補助施設については工事が継続されたようで、大正12 年6月時点では弾廠が6、同年12月時点では砲側庫・貯水池・塁道が7本が完成している。昭和2年度には災害復旧費の名目で左砲側庫を構築する。昭和4年8月には監守衛舎改築工事が認可され、昭和5年10月に炸薬塡実所が防御営造物に編入されている。だが15K×4の備砲は実施された形跡は無い。

 

奄美大島要塞は昭和16年6月以降、警急戦備下令に応じて編制替えがあり、奄美大島要塞重砲兵連隊が編制され、昭和17年9月には連隊本部と4個中隊に分けられた。このうち重砲兵第6連隊第4中隊は安脚場砲台に駐在し、車輪式10センチ加農砲×4門が置かれたようだが、昭和19年の資料では消えている。

 

同中隊は大島海峡東口、奄美大島の皆津崎(安脚場の対岸)に移駐。昭和19年頃から複廓陣地などを構築して、湾口より進入する敵艦船に備えており、安脚場に戻ることは無かったようだ。

 

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監守衛舎

砲台を管理する砲台監守が住む建物。

安脚場砲台への登り口にある。

出典:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会「瀬戸内町内の遺跡3」

 

監守衛舎は民家として使われている(いた)ようだ。その奥の広場に兵舎、塀外には烹炊所があった。兵舎等は陸軍時代に建てられたが、海軍は移管後、監守営舎や兵舎等をそのまま使っていたようだ。「生間施設部隊指揮官宿舎」という名称は陸軍時代?海軍時代?

 

監守営舎および兵舎は、ハブ避けのコンクリート塀で囲まれている。

 

唯一の出入口に高さ50センチほどの板を差し込んでおり、これを跨いで出入りするようだ(平時使いはこんな感じ?)。ハブはジャンプ出来ないので床から高さ30センチくらいが咬まれるラインらしい(真偽不明だけど)。

 

 

 

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砲座④から③へ行くルートで書いていく。

 

第1砲座(砲座①)〜砲側庫〜第2砲座、第3砲座〜砲側庫〜第4砲座と2グループに分かれている。砲座①②グループと砲座③④グループの高低差は10メートル以上、グループ間は約120メートル離れている。この間には濾過式貯水槽(案内版では天水櫓)があるだけ。史料には観測所の記載が無いので設置されていないようだ(そもそも備砲が未設置)。

 

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第4砲座(砲座④)〜第2砲側庫〜第3砲座(砲座③)

標高115メートル

第4砲座(砲座④)

砲座は砲側庫より数メートル高い位置にある。公園整備で砲床の大部分が埋められたが、胸墻のほんの一部は残っている。第3砲座は消滅している。

 

 

 

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陸軍時代の連絡壕ないし掩蔽壕らしいが、海軍時代は退避壕に使っていた?

 

 

 

 

 

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第2砲側庫(砲座④と③用)

 

第1砲側庫は大正11年2月の工事中止命令以前に完成していたが、第2砲側庫は昭和2年度の工事で完成しているため、造りが若干異なる(内廊下がある等)。

 

第2砲側庫は第1砲側庫より標高が高い地点(標高112メートル)にある。幅約20m×高さ約5mの蒲鉾状の形状、入口は2箇所で共に片開きの鉄扉が取り付けられていた。基本的な造りは第1砲側庫(*後述)と同じだが、異なるのは内部通路があること。

 

何故か写真喪失のため、見取り図のみ、を載せます。

後日、写真を載せます(_ _)

 

出典:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会「瀬戸内町内の遺跡3」P.115

 

砲座④と③の胸墻の上部分(今は遊歩道)

 

砲座②と①へ約120メートル離れている(高低差は約10メートル)。

 

 

つづく・・

 

 

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奄美大島要塞

大正8年5月の要塞整理要領と同年12月の防備要領で、台湾〜南西諸島〜父島のラインを太平洋方面における国防の第一線と定め、日本近海の奄美大島と父島、台湾の澎湖島を洋上第一線要塞として策定された。

 

奄美大島と澎湖諸島の要塞新設(と建設改編)は海軍側の熱望だったようだ。奄美大島と加計呂麻島の間の大島海峡は、水深が深く東西両側で外海に接続していることから、薩川湾が連合艦隊の泊地になっている(海軍の給水施設在り)。奄美大島要塞は、大島海峡における敵艦および敵機の攻撃に対し、海軍と相俟って大島海峡を掩護するのが主目的とした。

 

奄美大島では大正9年8月に陸軍築城部奄美大島支部が新設され、翌年7月から要塞の建設が着工、12月には全ての砲台が工事中になる。

 

だがワシントン海軍軍縮会議(大正10年11月〜11年2月)で海軍軍備制限に関する条約が締結されると、同年2月27日付け陸密第33号をもって、奄美大島要塞の砲台と付属施設の建設は全て中止になった。いずれの砲台も軍道、砲座(ただし砲床は未完)及び 一部の補助建設物等の構築で中止されている。大正12年4月に奄美大島要塞司令部が開庁。

 

史料によれば、昭和6年頃より防御営造物として国有財産に編入の手続きを経て、砲座に直接関係しない火薬庫や観測所などの施設が、災害復旧名目の補修工事等様々な理由付けをして工事が行われていた。昭和8年3月に要塞再整理要領が大修正され、火砲の修正や与路島砲台の新設などが決定された。

 

以上、参考文献:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会「瀬戸内町内の遺跡2」および「瀬戸内町内の遺跡3」、「現代本邦築城史 第2部 第7巻 奄美大島要塞築城史」

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建設当初から実際に火砲が配備されたのは西古見第1/実久砲台のみ、の図

出典:「現代本邦築城史 第2部 第15巻 奄美大島要塞築城史」

 

出典:「現代本邦築城史 第2部 第15巻 奄美大島要塞築城史」

 

満州事変(昭和6年)で東アジア情勢の不安定さが顕著になると大島海峡は、輸送等の拠点として再度整備が進められることになる。他、様々な要因でワシントン海軍軍縮条約から離脱することを決定。昭和9年に条約預託者(アメリカ)に通告して自動失効させた(昭和11年)。

 

盧溝橋事件(昭和12年7月)を発端とした日中戦争契機に、陸軍は西古見第1/実久に火砲増強(昭和15年)、重砲兵連隊を編制して陣地構築を開始する(昭和16年11月)。建設当初から実際に火砲が配備されたのは西古見第1/実久砲台のみ。

 

海軍は奄美大島に大島水上基地(昭和16年8月)、海軍施設を防備する大島防備隊(昭和16年10月)を配備する。防備衛所や特設見張所、海面砲台(平射砲台)、防空砲台など次々と新設した。

大島海峡では海軍が軍備増強をしている。上記に挙げた以外にも、陸軍の奄美大島要塞の一部を移管して新設した海面砲台、機銃陣地、空中聴音所、大島軍需支庫の整備拡張など。古仁屋航空基地(海軍)は第931航空隊が航空基地の管理部隊に指定される(昭和18年1月)。昭和20年3月以降、同飛行場は南九州各地から沖縄に向けて飛び立った特攻機の中継地/不時着飛行場になった。昭和19年11月頃より第17/18/44震洋隊が配備された(陸軍も陸軍海上挺進第29戦隊を配備して震洋隊と共同運用)。

昭和19年3月22 日、台湾・南西諸島方面の戦備強化の作戦準備である「十号作戦準備」が下令される。徳之島、沖縄本島、宮古島、石垣島地区に飛行場を造成し、これを防御の核として防備態勢を強化する。同年5月に奄美大島要塞司令部は事実上閉庁、本部は徳之島へ移動。奄美群島の防衛は重砲兵第6連隊主力や独立混成第21連隊1コ中隊が担う。重砲兵第6連隊は、固定式28H×4・固定式15K×2・車輪式10K×2・ 38式野砲×7・機銃・探照灯×2など装備していたようだ。

 

喜界島・徳之島の航空基地防衛強化のため、大島海峡に配備された火砲の一部が移設される。海軍の古仁屋航空基地は機能強化され実用基地となる。昭和20年7月には海軍陸戦隊が編成された。

 

昭和20年7月頃の資料によれば、陸軍の重砲兵第6連隊は、安脚場陣地(安脚場砲台)を撤収してきた第3中隊の1個小隊野砲2門、重機関銃1丁、軽機関銃2丁)は古仁屋背後の高知山の頂上近くに坑道式陣地を構築。皆津崎(皆津崎砲台付近)に坑道式陣地を含む複廓陣地を構築。西古見砲台(備砲の28H×4)には第2中隊が守備につき、坑道式陣地を含む複廓陣地を構築。実久砲台は(備砲の15K×2)第1中隊がが守備につき、野砲×2を加えて陣地構築も構築した。

 

以上、参考文献:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会「瀬戸内町内の遺跡2」および「瀬戸内町内の遺跡3」、「現代本邦築城史 第2部 第7巻 奄美大島要塞築城史」

 

出典:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会「瀬戸内町内の遺跡3」

 

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安脚場砲台

起工:大正10年7月1日

中止:大正11年3月31日

→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)

備砲:7年式15センチ加農砲(または15速加)×4門(*立案のみ)→車輪付10センチ加農砲×4・3年式機関銃×2(昭和16年〜18年5月時点/昭和20年7月の史料では他地区へ移設済)

標高:(右2門)102メートル、(左2門)115メートル

備考:昭和2年度に左砲側庫も完成

※昭和16年に大半を海軍に移管。陸軍の野砲および機銃陣地(昭和20年7月頃に古仁屋方面に移転)、海軍の金子手崎防備衛所・海軍防空砲台・機銃陣地あり

 

実久砲台

起工:大正10年8月11日

中止:大正11年3月31日

→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)

備砲:7.5速射加農砲×47年式15センチ加農×445式15センチ加農砲×4→克式15センチ加農×2門(昭和15年8月設置決定)→克式15センチ加農×2門と3年式機銃(昭和18年5月決定)

標高:102.2〜110.2メートル

備考:昭和2年度に右砲側庫完成、貯水所×1増築。昭和5年度に繋船場増築。昭和9年度に観測所×1増築、火薬支庫×1増築

 

西古見(にしこみ)第1砲台

起工:大正10年9月6日

中止:大正11年3月31日

→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)

備砲:15センチ速射加農砲×4門(*立案のみ)→23口径30センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→45式24センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→7年式30センチ長榴弾砲×4(*立案のみ)→28センチ榴弾弾×4門(昭和15年8月設置決定)

標高:10.5メートル

備考:昭和7年度に観測所・火薬支庫を国有財産に受入れ昭和8年度に災害復蓄費で改築す。昭和10年度に薬莢庫を国有財産に受入れ同年度に修繕費にて改築す

※昭和16年11月に重砲兵聯隊第2中隊が西古見地区で陣地構築

 

江仁屋離砲台

起工:大正10年10月6日

中止:大正11年3月31日

→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)

備砲:15センチ速射加農砲×4(*立案のみ)→11年式75センチ加農砲×4(*立案のみ)→11年式7センチ加農砲×4(*立案のみ)→野砲×2と3年式機関銃×2(昭和18年5月)→撤収(終戦間際)

標高:49.8〜53.8メートル

備考:昭和7年度に軍道・繋船場・井戸を国有財産に受入れ、昭和10年度に観測所・油庫・職工宿泊所を国有財産に受入れ

 

皆津崎第1砲台

起工:大正10年11月21日

中止:大正11年3月31日

→(大正11年度以降に着手計画ゆえ未着工のまま中止、だが趨勢により計画通り起工/災害復蓄費または新営費から捻出)

備砲:23口径30センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→45式24センチ榴弾砲(父島要塞大村第1砲台と交換*立案のみ)→7年式30センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→45式24センチ榴弾砲×4(*立案のみ)

標高:7.5メートル

備考:昭和2年度に火薬支庫増築。昭和7年度に軍道・繋船場・観測所・砲具庫を国有財産に受入れ昭和8年度に災害復蓄費または新営費で改築す。昭和8年度に第1砲台砲床構築。

※昭和16年に要塞重砲兵聯隊第6中隊が38式野砲×4と探照灯×1から成る陣地を構築。昭和19年秋に38式野砲×1と10センチ加農×2に再編成

 

皆津崎第2砲台

起工:大正10年11月21日

中止:大正11年3月31日

→(大正11年度以降に着手計画ゆえ未着工のまま中止、だが趨勢により計画通り起工/災害復蓄費または新営費から捻出)

備砲:7.5速射加農砲×4(*立案のみ)→11年式7.5センチ速射加農砲×4(*立案のみ)→11年式7センチ加農砲×4(*立案のみ)→38式12センチ榴弾砲×4と3年式機関銃×2(昭和18年5月*立案のみ)→38式野砲×1(穹窖砲台*第1か第2かは定かでは無い/昭和20年7月の史料)

標高:8メートル

備考:第1砲台の項に纏めて記載

 

西古見第2砲台

場所:西古見第1砲台内

起工:大正10年(1921年)12月19日

中止:大正11年3月31日

→(大正11年度以降に着手計画ゆえ未着工のまま中止、だが趨勢により計画通り起工/災害復蓄費または新営費から捻出、ただし第1/第2の区別なく詳細不明

備砲:15センチ糎加農(敷地のみ)7年式15センチ加農砲×4(*立案のみ)→38式12センチ榴弾砲(*立案のみ)→38式10センチ加農砲×4(*立案のみ)→野砲×2と3年式機銃×2(昭和16年〜18年5月時点*立案のみ/昭和20年7月の史料では他地区へ移動?未設置?済)

備考:昭和10年度に第2砲台観測所を国有財産に受入れて修繕費にて改築す

 

与路島砲台

昭和8年3月に新設決定(未着工)

備砲:45式24センチ榴弾砲×4(*立案のみ)

備考:昭和19年11月頃から海軍の海面砲台、機銃陣地など構築

 

 

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