[奄美大島要塞]手安弾薬本庫

 

出典:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会(2017年3月)「瀬戸内町内の遺跡2」、P.33

 

手安弾(てあん)薬本庫

起工:昭和6年頃(大正11年用地買収終了)

竣工:昭和12年9月頃

備考:

・昭和9年度に清涼火薬庫1を国有財産に受入

・昭和10年度に薬莢庫1,未塡弾薬庫1,乾燥火薬庫1,器材庫1,火薬試験所1,臨時衛舎1を国有財産に受入。修繕費・新営費にて逐次改築す

・昭和10年4月、清涼火薬庫と乾燥火薬庫の改築工事。同年7月に新営工事に着手。

・昭和12年9月、移動式火薬庫乾燥装置の設置 及び乾燥試験を経て、手安弾薬本庫の運用が開始された、ようだ。

・戦後の引渡では、手安弾薬庫だけで約6万トンの弾薬類が保管されていた。

 

出典:「現代本邦築城史 第2部 第7巻 佐世保要塞築城史」

 

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手安弾薬本庫の敷地だが、平坦地は自動車学校の敷地と民家になっている。現存しているのは監守衛舎と3本の坑道式弾薬庫のみ。

 

出典:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会(2022年3月)「瀬戸内町内の遺跡2」、P.134

 

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監守衛舎

弾薬本庫を管理する監守が住む建物。奄美大島要塞の各施設にある監守衛舎は、ハブ避けのコンクリート塀も含め、全て同規格でつくられている。

 

 

 

門柱

門柱の高さは約1mで1辺70センチ弱の正四角形。門柱間は約4m。

 

 

坑道は3本

・単独坑道(1坑)

・横坑でつながっているH型の連結坑道(2坑・3坑)

 

他、器材庫や火薬試験所などの建屋は消滅(更地にして今は自動車学校)。

 

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1坑

単独坑でI型。

全長70mで一番大きな弾薬庫、とのこと。地震観測施設になっているため立ち入れない。

 

 

 

長い通路だ・・・奥に内室(内庫)がある

 

 

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3坑

出入口の階段は戦後に付けられたもの。

2坑とは内部で連結している(H型)ため、内部で移動する。

 

 

 

鉄扉があったようだ

奥は3坑専用の通路で19m弱の直線(幅・高さとも約2.5m)、両脇に排水溝がある。

 

横坑および弾薬庫の内室(内庫)がみえる

 

 

内室(内庫)

鉄骨鉄筋コンクリート造。コンクリートを打設した後、防水防湿のためアスファルトフェルトを貼り、さらに防水モルタルを塗り仕上げた。鉄扉は盗られた。

 

2坑への連絡坑道(横坑)

 

外室(外庫)と内室(内庫)の隙間

内庫天井部と外庫天井部との空間は1.1m、外庫と内庫の両壁間に西壁70センチおよび東壁66 センチ、最奥部に75センチの空間がある。

 

出典:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会(2022年3月)「瀬戸内町内の遺跡3」P.141より抜粋・加筆

 

内室(内庫)に入る。

まず、前室。

全長3m×幅5m×高×3.44mで2坑も同規格。鉄扉は盗られた。

 

前室・本庫とも内面壁に銅板が貼られていたが、戦後に全ての銅板が剥がされたため、壁内部が露出した状態。

 

 

内室(内庫)の本庫

いわゆる弾薬庫ですワ

全長24.43m×幅5m×高さ3.28m、とのこと。

 

最奥から前室をみる

 

では2坑へ移動

連絡坑道(横坑)を歩く。

連絡坑道は全長33.75m×幅2.5m×高さ2.6m、とのこと。両側に排水溝あり。両開きの鉄扉が付いていたが盗られた。

 

2坑

構造は3坑と同じ、違うのは内室(内庫)の全長のみ。

 

 

2坑、内室(内庫);右、外部への出入口への通路口;左

 

2坑から連絡坑道(横坑)を3坑方向にみる。

 

 

2坑の専用通路から2坑の内室(内庫)をみる

 

退室(^_^)/~

 

 

2坑の出入口

 

 

終わり

 

 

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大相撲力士の「明生関」は鹿児島県大島郡瀬戸内町(奄美大島側)の出身。

 

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