[佐世保海軍軍需部/奄美大島]大島支庫(水溜)
明治24年、奄美群島初の軍事施設 (石炭庫と諸倉庫)が久慈湾に置かれた。当時は海軍省官有資産で大正12年3月に佐世保海軍軍需部の付属施設になった。明治28年に(現存する)赤煉瓦構造の水溜(標高2.9m)が桟橋とともに建設された。 当時、久慈湾は石炭補給基地の基地として、また台湾航路を維持する上で重要な地域だった、とのこと。
鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会(2022年3月)「瀬戸内町内の遺跡3」P.49
抜粋:『取水口と濾水池、そして水溜から桟橋へ水道管を敷設し、桟橋海側突端付近に給水嘴27(給水口)が設置され、給水嘴より伝馬船(水運搬船)へ水を溜めて、沖合に停泊する艦船へ給水した。
資材や職工は佐世保鎮守府監督部より徴集、 現地輸送されたようである。桟橋と水溜建設では、日清戦争の戦利品である旅順回送のセメントを使用した。建設当時の水溜上屋は切妻木造瓦葺・漆喰塗仕上げだったが、昭和4年7月の台風被害で水溜上屋部分は木造瓦葺から鉄筋コンクリート造へと修繕された。
水溜内部は方形6区画に分かれており、その屋根部分にコンクリートを敷設した。水溜の対角にマンホールを2個設置し、内部壁面に鉄製梯子を取り付け、内部の状況確認を可能とした』
県道79号線の上部の久慈集落山斜面に、赤煉瓦構造物の取水口(標高38.5m)と半壊状態の濾水池(標高12.4m)があるとのこと(私は未探索)。埋設水道管は戦後、農地整備等のため撤去されたようだ。桟橋は埋め立てで消滅。
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水溜め
外面幅10.2m×長さ12.4m×高さ4.3m、
コンクリートで基礎が打設され、その上にレンガが積まれている。レンガはオランダ積みで、昭和4年7月よりコンクリート製蓋がされていた(現在は蓋なし)。
背後は県道79号線の造成工事の際、廃土が盛られてしまった。水溜めは元々は平地につくられている。
背後の道路側からみる
出典:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会(2017年3月)「瀬戸内町内の遺跡2」、P.37
内部は6区画に仕切られ、貯水量は約300 トン
コンクリート蓋があったのだが・・・・
一部鉄筋が剥き出しになっている箇所は、戦後の鉄搾取(鉄ドロボー)の破壊工作のせい。
「瀬戸内町内の遺跡3」の図版に大島支庫(水溜)の写真が載っている。
鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会(2022年3月)「瀬戸内町内の遺跡3」P.246
終わり
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奄美大島産のカンパチ
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