[澎湖島要塞/昭和期]澎湖島中央部のトーチカなど

台湾、澎湖県馬公市澎湖休憩園区、周辺

※後日、加筆予定

 

大東亜戦争期の澎湖島要塞

昭和16年9月、臨時編成令・準戦備下令。

昭和16年11月に本戦備下令、澎湖島重砲兵連隊などが編成される。

 

昭和20年1月4日、要塞司令部および要塞重砲兵連隊を復帰。組織は澎湖島馬公にて再編され、第10方面軍隷下独立混成第75旅団(独立歩兵第560〜564大隊)が澎湖島の守備を担当した(旅団長が要塞司令官の任務を承継)。

拘束陣地帯は水際陣地・前地地帯・主抵抗陣地から成るが、主抵抗陣地は明治期に築城され除籍されていない砲台/堡塁、澎湖島の中央部の拱北山に定めたようだ。上陸可能な砂浜には水際陣地のトーチカ、主要街道の要衝に前地地帯を置いている。澎湖諸島は澎湖島以外の島は小さく細長く平たい。陸海協同の協定により、陸海軍共同で防禦陣地をつくったようだ。

 

私がみたトーチカ群

 

澎湖島中央部のトーチカ

 

拱北山第1砲台(28センチ榴弾砲×6)と拱北山第2砲台(克式15センチ加農砲×6)を中心とした一第軍事拠点(現・澎湖休憩園区など)の周辺には、実に多くの日本軍のトーチカがある。戦後、中華民国(台湾)国軍の軍事拠点でもあったため、これらトーチカには興味深い改築がみられる。

 

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幹線である202号線沿い、拱北山方向へ南下する路との交差点にある機関砲のトーチカがある。通行人に聞けば「日軍のものを国軍が変えた」というが真偽不明。

 

激藪の中、機関砲のトーチカが1基、退避壕1基を確認。深い交通壕で結ばれ周囲の地形や藪っぷりをみると、同じセットがもうひとつありそう。

 

トーチカの銃口は2方向

 

 

 

銃眼、内側からコンクリート製の蓋をしている

 

トーチカの銃眼から奥へ入って行く。

深い交通壕が張り巡らされているが、棘付きサボテン・棘付き蔓・雑草や低木などがイキイキ生えているため交通壕の縁(土塁)を這うように進む。土はボロボロなので踏ん張りが効かない。難易度高め。

 

退避壕を一旦通り過ぎ、トーチカとは反対側の出入口から入る。退避壕は南北に貫通しているが、トーチカ側(北)の藪とゴミが濃すぎて無理(>o<)

 

入室(・∀・)

銃口や換気孔的なものは無い、道路側には凹みがある。

 

 

 

退避壕を出て、交通壕の縁(土塁)を登り、退避壕を振り返る

退避壕のトーチカ側(北)の出入口を見下ろす

 

退避壕からトーチカへ

交通壕は5メートルほどの距離だが、ゴミや激藪で進めないため、一旦、平行する交通壕に逃げてからトーチカの壁沿いを降りる。

 

枯れ枝とゴミの隙間からトーチカにIN

 

入口部分が機能的な物置場あり(オリジナルが日本軍製とすれば魔改造だ)

 

コンクリート製の扉付き(魔改造)

 

コンクリート製の扉について。

戦前、来間島にある自然洞を利用した火薬庫には、全く同じ形の扉が現存している(後述)。

 

天井には消音?のブツブツが付いている(魔改造)

 

これは中華民国(台湾)国軍仕様ですな。

 

 

 

 

 

 

筐体は丁寧に造られているが、付け足し部分が手作り感あり。

 

これをまた掻き分けて出るのが憂鬱・・・

 

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拱北山第1砲拱北山第2砲台を中心とした一第軍事拠点(現・澎湖休憩園区など)内にあるトーチカ群。澎湖休憩園区内のトーチカは中華民国(台湾)国軍が造ったトーチカが目立つので、これは省く。

 

南の海へつながる軍道沿いにあるトーチカ群

 

反対車線にも似た形のトーチカ在り

 

こちらは中華民国(台湾)国軍の魔改造されずに放置されたトーチカ

 

まだまだあるけど似たようなものが多いので割愛。

 

 

終わり

 

 

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澎湖島要塞

台湾海峡の防禦、海軍の要港がある澎湖島の防禦のため設置された。

 

明治28年4月17日、下関条約に基づき台湾を領有する。

大日本帝国陸軍(陸軍)は台湾防衛上の要地を基隆・高雄・澎湖諸島とし、澎湖諸島に澎湖島要塞が築造を決定。明治32年6月に陸軍築城部澎湖島支部が開設され、明治35年2月に澎湖島要塞司令部が開設された。大日本帝国海軍(海軍)は明治34年7月、澎湖島に馬公要港部(高雄警備府)を開設している。

 

明治33年4月〜明治42年3月の間に第一期の要塞工事が終了した。なお日露戦争ではロシア帝国海軍の艦隊は台湾海峡の航行を避けた。

 

南方作戦の実施に備えるため、大正10年8月から増強工事に着手した。だが大正11年2月の華府会議(ワシントン軍縮会議)にて批准された海軍軍備制限条約(同条約の19条)により、海軍基地や砲台工事は中止となった。昭和11年12月に条約が失効されるとロンドン海軍軍縮条約から脱退、増強工事(第二期)を開始した。

 

昭和16年9月、臨時編成令。

同年9月に準戦備下令。

同年11月に本戦備下令、澎湖島重砲兵連隊などが編成される。

昭和20年1月、要塞司令部および要塞重砲兵連隊を復帰。組織は再編されて独立混成第75旅団が澎湖島の守備を担当した(旅団長が要塞司令官の任務を承継)。

 

出典:「現代本邦築城史」 第2部 第10巻 澎湖島要塞築城史

 

大山堡塁←立入禁止(私有地)

起工:明治33年4月25日

竣工:明治35年6月24日

備砲:安式10インチ(吋)加農砲×4(1座1門)

除籍:

 

鶏舞鳥山堡塁←立入禁止(軍用地)

起工:明治33年5月15日

竣工:明治35年7月14日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)、小口径速射砲×4(1座2門)

除籍:

 

西嶼東砲台付属砲台

起工:明治33年5月15日

竣工:明治35年7月14日

備砲:9センチ速射加農砲×4(1座2門)、他に機関砲の代わりに9センチ加農砲×2を有す

除籍:

備考:戦後、東臺營區と改名して国民軍が使用していた。1977年に国民軍が第3砲側庫(台湾では第2砲側庫)をトンネルの出入口にして海岸の絶壁中腹に「孖砲堡」と呼ばれる5インチの艦砲を備砲とした新砲台を完成させている。現在は孖砲堡も含めて一般開放中。

 

西嶼東堡塁(西嶼東台)←廃止

改築:明治34年3月20日

竣工:明治36年3月28日

備砲:安式12インチ(吋)加農砲×4(1座1門)

除籍:昭和10年8月除籍(但し観測所は西嶼東砲台付属砲台に編入)

備考:清領時代の1887年起工・1889年竣工。

 

拱北山第1砲台←後日UP?

起工:明治34年12月1日

竣工:明治37年7月31日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)

除籍:

 

拱北山第2砲台←部分除籍

起工:明治34年12月21日

竣工:明治37年7月31日

備砲:克式15センチ加農砲×6(1座2門)、15センチ臼砲(1座2門)

除籍:昭和10年8月臼砲関連のみ除籍

 

拱北山堡塁

起工:明治35年7月20日

竣工:明治37年8月15日

備砲:小口径速射砲×2

除籍:昭和10年8月

 

拱北山框舎

起工:明治36年2月6日

竣工:明治37年10月30日

備砲:小口径速射砲×2、機関砲×2

除籍:昭和10年8月

 

内按社堡塁

起工:明治36年2月1日

竣工:明治37年9月30日

備砲:克式12センチ加農砲×6(1座2門)、9センチ臼砲×4(1座2門)

除籍:昭和10年8月

 

西嶼西堡塁(東台西堡壘/東昌營區)

起工:明治36年4月25日

竣工:明治37年10月25日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)

除籍:昭和12年に4門に変更

 

米山框舎

起工:明治37年12月21日

竣工:明治38年4月6日

備砲:

除籍:

 

竹蒿湾框舎

起工:明治37年12月23日

竣工:明治38年2月5日

備砲:

除籍:

 

内按社框舎(五孔碉堡)

起工:明治38年1月28日

竣工:明治38年3月27日

備砲:

除籍:昭和10年8月除籍

備考:清領時代の1888年頃竣工。

 

天南砲台(→天南演習砲台)(馬公金亀頭砲台)←後日UP

起工:明治35年5月20日

竣工:明治37年9月15日

備砲:9センチ速射加農砲×2(1座2門)

除籍:大正2年6月除籍→演習砲台に組替

備考:火砲増築①明治43年28H×2、②昭和5年88式海岸射撃具1組

 

外垵社砲台(外垵餌砲)

起工:大正10年8月12日

中止:大正11年3月31日←公式発表

備砲:砲塔35センチ加農砲×2(1基2門)

除籍:華府会議(ワシントン海軍軍縮条約)により工事中止

 

猪母水砲台

起工:大正10年9月11日

中止:大正11年3月31日←公式発表

備砲:砲塔35センチ加農砲×2(1基2門)

除籍:華府会議(ワシントン海軍軍縮条約)により工事中止

 

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旧西嶼西堡塁(西嶼西臺)

起工:1883年

竣工:1889年

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座1門)

除籍:

備考:陸軍は首線の変更により同名の新堡塁を築城した。外周の土塁に粗悪な待避所が2ヶ所あることから、昭和16年11月の本戦備下令以降、何らかの施設をおいて使用していたようだ。戦後に国民党軍により増強された。