[澎湖島要塞/昭和期]内按社框舎(含トーチカ)

台湾、澎湖県西嶼郷

※後日、加筆予定?

 

内按社框舎(五孔碉堡)

起工:明治38年1月28日

竣工:明治38年3月27日

備砲:

除籍:昭和10年8月除籍

備考:清領時代の1888年頃竣工。

 

出典:アジア歴史センター(C02030024800)竹コウ湾外2箇所框舎取扱方の件

 

 

内按社框舎

清領時代の1888年頃竣工の砲台/堡塁(備砲は不明だが台湾名は五孔碉堡なので、砲座が5つあった?)。明治38年1〜3月に改良して内按社框舎となった。澎湖島要塞の框舎では地図があり、所在がハッキリしていて登山道も整備されている。

框舎(きょうしゃ) 

堡塁砲台構造ノ様式(明治33年7月)

框舎の目的は其地点の占領を確実にして或は砲戦砲台を援護し、又は此両任務を併有することにあり。框舎の編成は通常左の如し 

(1)機関砲約4門(要すれは小口径(7センチ半以下)速射砲約2門を加ふ)。 

(2)守兵約2分1小隊 

(3)単簡有威の自衛を要す

(4)框舎の構造は敵弾殊に垂直射弾に対し、安全なる穹窖式とす而して其細部の設備は、側防框舎の例に準す。但し陸正面の框舎にして露天となす件は其胸墻は比噸製とし砲及砲手の掩蔽部を設くるを要す

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内按社框舎は五孔山の山頂にある。

 

山頂に着いたら右折。

ここに昭和20年頃につくられた日本軍のトーチカがある。

 

 

銃眼下に置かれているコンクリート塊は「銃眼用の蓋」

戦後、中華民国(台湾)国軍によって設置された。

 

元々のトーチカに天井を補強(コンクリートを置く)、銃眼にコンクリート製蓋を設置など中華民国(台湾)国軍によるリノベ跡が散見される。第一次台湾海峡危機(1954〜1955年)〜第二次台湾海峡危機=金門砲戦(1958年8〜10月)に施工されたのだろうか?

 

 

上部はかなり粗い工事だ。

 

裏に回り出入口を探す

塹壕というか交通壕が明確に残っている。

 

出入口

 

入室( ̄^ ̄)ゞ

 

砲室内は縦長で広め、機銃座付き(・∀・)

 

 

 

黄色丸の指示書は戦後、中華民国(台湾)国軍が描いたもの。

 

 

銃眼から澎湖島方向をみる

 

 

では、退室します!

 

 

 

 

 

交通壕を通り、清領時代につくられた側防穹窖(側防框舎)に向かう。

何かある!!

 

陸軍境界標石だー!

(((o(*゚▽゚*)o)))♡

 

 

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側防穹窖(側防框舎)に向かう

 

 

側防穹窖(側防框舎)の図

覘視孔は台湾海峡(中国大陸側)に向いている

 

 

日本軍および中華民国(台湾)国軍が手直しした形跡在り。

天井を付けたのは日本軍っぽい。くの字構造。

 

跳弾用の段々(階段状のやつ)は付いていないので、監視用の覘視口かな。

 

単体側の出入口

 

外側から出入口をみる

右側の鉄柵の部屋は立哨台のような部屋

 

お!

陸軍境界標石だー!(2本目)

 

もうひとつの陣地(C,D)へGO

 

陣地(C,D)は見つけられず。

次回、探し出す(出せる)・・・・・かも?

 

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海岸沿いの激藪の中、横一列に大きめの凹みがある。

ここが清領時代の砲台時、砲座だったところなのか?

 

観測所?

日本軍っぽいつくりにみえる

 

境界柱は日本軍のもの

 

砲座からの景色

澎湖島に向いており、正面は馬公市街。

 

向かって右側は西嶼島の南

写真中央の牛心湾には第102及び第105 震洋隊)がいた。現在、中華民国(台湾)国軍の軍用地内に「西嶼東鼻頭震洋艇格納壕」として現存している。

 

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再訪するチャンスがあればじっくり歩きたいが、激藪対策など"完全武装"しないと厳しいかな。

 

 

終わり

 

 

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澎湖島要塞

台湾海峡の防禦、海軍の要港がある澎湖島の防禦のため設置された。

 

明治28年4月17日、下関条約に基づき台湾を領有する。

大日本帝国陸軍(陸軍)は台湾防衛上の要地を基隆・高雄・澎湖諸島とし、澎湖諸島に澎湖島要塞が築造を決定。明治32年6月に陸軍築城部澎湖島支部が開設され、明治35年2月に澎湖島要塞司令部が開設された。大日本帝国海軍(海軍)は明治34年7月、澎湖島に馬公要港部(高雄警備府)を開設している。

 

明治33年4月〜明治42年3月の間に第一期の要塞工事が終了した。なお日露戦争ではロシア帝国海軍の艦隊は台湾海峡の航行を避けた。

 

南方作戦の実施に備えるため、大正10年8月から増強工事に着手した。だが大正11年2月の華府会議(ワシントン軍縮会議)にて批准された海軍軍備制限条約(同条約の19条)により、海軍基地や砲台工事は中止となった。昭和11年12月に条約が失効されるとロンドン海軍軍縮条約から脱退、増強工事(第二期)を開始した。

 

昭和16年9月、臨時編成令。

同年9月に準戦備下令。

同年11月に本戦備下令、澎湖島重砲兵連隊などが編成される。

昭和20年1月、要塞司令部および要塞重砲兵連隊を復帰。組織は再編されて独立混成第75旅団が澎湖島の守備を担当した(旅団長が要塞司令官の任務を承継)。

 

出典:「現代本邦築城史」 第2部 第10巻 澎湖島要塞築城史

 

大山堡塁←立入禁止(私有地)

起工:明治33年4月25日

竣工:明治35年6月24日

備砲:安式10インチ(吋)加農砲×4(1座1門)

除籍:

 

鶏舞鳥山堡塁←立入禁止(軍用地)

起工:明治33年5月15日

竣工:明治35年7月14日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)、小口径速射砲×4(1座2門)

除籍:

 

西嶼東砲台付属砲台

起工:明治33年5月15日

竣工:明治35年7月14日

備砲:9センチ速射加農砲×4(1座2門)、他に機関砲の代わりに9センチ加農砲×2を有す

除籍:

備考:戦後、東臺營區と改名して国民軍が使用していた。1977年に国民軍が第3砲側庫(台湾では第2砲側庫)をトンネルの出入口にして海岸の絶壁中腹に「孖砲堡」と呼ばれる5インチの艦砲を備砲とした新砲台を完成させている。現在は孖砲堡も含めて一般開放中。

 

西嶼東堡塁(西嶼東台)←廃止

改築:明治34年3月20日

竣工:明治36年3月28日

備砲:安式12インチ(吋)加農砲×4(1座1門)

除籍:昭和10年8月除籍(但し観測所は西嶼東砲台付属砲台に編入)

備考:清領時代の1887年起工・1889年竣工。

 

拱北山第1砲台←後日UP?

起工:明治34年12月1日

竣工:明治37年7月31日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)

除籍:

 

拱北山第2砲台←部分除籍

起工:明治34年12月21日

竣工:明治37年7月31日

備砲:克式15センチ加農砲×6(1座2門)、15センチ臼砲(1座2門)

除籍:昭和10年8月臼砲関連のみ除籍

 

拱北山堡塁

起工:明治35年7月20日

竣工:明治37年8月15日

備砲:小口径速射砲×2

除籍:昭和10年8月

 

拱北山框舎

起工:明治36年2月6日

竣工:明治37年10月30日

備砲:小口径速射砲×2、機関砲×2

除籍:昭和10年8月

 

内按社堡塁

起工:明治36年2月1日

竣工:明治37年9月30日

備砲:克式12センチ加農砲×6(1座2門)、9センチ臼砲×4(1座2門)

除籍:昭和10年8月

 

西嶼西堡塁(東台西堡壘/東昌營區)

起工:明治36年4月25日

竣工:明治37年10月25日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)

除籍:昭和12年に4門に変更

 

米山框舎

起工:明治37年12月21日

竣工:明治38年4月6日

備砲:

除籍:

 

竹蒿湾框舎

起工:明治37年12月23日

竣工:明治38年2月5日

備砲:

除籍:

 

内按社框舎(五孔碉堡)

起工:明治38年1月28日

竣工:明治38年3月27日

備砲:

除籍:昭和10年8月除籍

備考:清領時代の1888年頃竣工。

 

天南砲台(→天南演習砲台)(馬公金亀頭砲台)←後日UP

起工:明治35年5月20日

竣工:明治37年9月15日

備砲:9センチ速射加農砲×2(1座2門)

除籍:大正2年6月除籍→演習砲台に組替

備考:火砲増築①明治43年28H×2、②昭和5年88式海岸射撃具1組

 

外垵社砲台(外垵餌砲)

起工:大正10年8月12日

中止:大正11年3月31日

備砲:砲塔35センチ加農砲×2(1基2門)

除籍:華府会議(ワシントン海軍軍縮条約)により工事中止

 

猪母水砲台

起工:大正10年9月11日

中止:大正11年3月31日

備砲:砲塔35センチ加農砲×2(1基2門)

除籍:華府会議(ワシントン海軍軍縮条約)により工事中止

 

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旧西嶼西堡塁(西嶼西臺)

起工:1883年

竣工:1889年

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座1門)

除籍:

備考:陸軍は首線の変更により同名の新堡塁を築城した。外周の土塁に粗悪な待避所が2ヶ所あることから、昭和16年11月の本戦備下令以降、何らかの施設をおいて使用していたようだ。戦後に国民党軍により増強された。