[澎湖島要塞]西嶼西堡塁(東台西堡壘)①右翼観測所

台湾、澎湖県西嶼郷内垵村

 

西嶼西堡塁(東台西堡壘)

起工:明治36年4月25日

竣工:明治37年10月25日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)

標高:45メートル

目的:重砲を以て西嶼灯台の方向より、西嶼東堡塁の方向に亘る前方一帯の海面を射撃し、東堡塁を掩護し、猶時機に依り其の北方湾内にも射撃す。

除籍:昭和12年に4門に変更

 

 

明治34年8月20日、澎湖島要塞計画が改定され、西嶼西堡塁の築城を開始した。完成後は清領時代に築城された西嶼西臺の使用を止めたようだ。日本製の西嶼西堡塁は、日本本土の要塞と同じ様式でつくられた。

 

日本製の西嶼西堡塁は、昭和12年に28センチ榴弾砲が6門から4門(2座4門)に減らされた。戦後、この西堡塁〜東堡塁にかけての一帯には中華民国(台湾)国軍が駐屯していた。当堡塁では減らされたと思われる砲座が戦後、魔改造されて隠顕砲台(現地案内では砲塔砲台)になっている。

 

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門柱は台湾の国軍仕様に変更されたが、門柱自体はオリジナルと思われる。

 

中華民国(台湾)国軍仕様に変更

堡塁入口、入ってすぐ右

 

 

監守衛舎

中華民国(台湾)国軍仕様に変更

堡塁入口、入ってすぐ左

 

砲側庫③

砲側庫③の前から左へ上がる階段在り(左翼観測所へ)

 

砲側庫③の右端に砲座③、左斜め上に左翼観測所

 

砲側庫は引き違い扉のタイプ

 

奥が丸いタイプ

 

退出(・ω・)ノ

 

では、左翼観測所へ行きます( ̄^ ̄)ゞ

 

 

通信室/指令室

さらに上に行く階段は左右2ヶ所にあり。

 

左の階段を上がる

 

左翼観測所

鋼鉄製装掩蓋仕様(・∀・)

 

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

 

 

観測窓まで現存 /(⁠ ̄⁠▽ ̄⁠)

 

武式測遠機の台座ですネ

出典:浄法寺朝美「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」、p.75より抜粋

 

 

緑色のペンキを塗られちゃっているけど、威風堂々とした佇まい

 

 

 

左翼観測所〜砲座〜右翼観測所〜電燈までの胸墻

通しで歩くことが出来る。

水色の筒状のものは砲側庫の換気孔

 

一旦、通信室/指令室まで戻り、右側の階段を上がる

 

小隊長(砲台長)位置があったっぽいが、遺構はない。

 

次は砲座をみよう

 

 

 

 

つづく

 

 

 

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澎湖島要塞

台湾海峡の防禦、海軍の要港がある澎湖島の防禦のため設置された。

 

明治28年4月17日、下関条約に基づき台湾を領有する。

大日本帝国陸軍(陸軍)は台湾防衛上の要地を基隆・高雄・澎湖諸島とし、澎湖諸島に澎湖島要塞が築造を決定。明治32年6月に陸軍築城部澎湖島支部が開設され、明治35年2月に澎湖島要塞司令部が開設された。大日本帝国海軍(海軍)は明治34年7月、澎湖島に馬公要港部(高雄警備府)を開設している。

 

明治33年4月〜明治42年3月の間に第一期の要塞工事が終了した。なお日露戦争ではロシア帝国海軍の艦隊は台湾海峡の航行を避けた。

 

南方作戦の実施に備えるため、大正10年8月から増強工事に着手した。だが大正11年2月の華府会議(ワシントン軍縮会議)にて批准された海軍軍備制限条約(同条約の19条)により、海軍基地や砲台工事は中止となった。昭和11年12月に条約が失効されるとロンドン海軍軍縮条約から脱退、増強工事(第二期)を開始した。

 

昭和16年9月、臨時編成令。

同年9月に準戦備下令。

同年11月に本戦備下令、澎湖島重砲兵連隊などが編成される。

昭和20年1月、要塞司令部および要塞重砲兵連隊を復帰。組織は再編されて独立混成第75旅団が澎湖島の守備を担当した(旅団長が要塞司令官の任務を承継)。

 

出典:「現代本邦築城史」 第2部 第10巻 澎湖島要塞築城史

 

出典:「現代本邦築城史」 第2部 第10巻 澎湖島要塞築城史

 

大山堡塁←立入禁止(私有地)

起工:明治33年4月25日

竣工:明治35年6月24日

備砲:安式10インチ(吋)加農砲×4(1座1門)

除籍:

 

鶏舞鳥山堡塁←立入禁止(軍)

起工:明治33年5月15日

竣工:明治35年7月14日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)、小口径速射砲×4(1座2門)

除籍:

 

西嶼東砲台付属砲台

起工:明治33年5月15日

竣工:明治35年7月14日

備砲:9センチ速射加農砲×4(1座2門)、他に機関砲の代わりに9センチ加農砲×2を有す

除籍:

備考:戦後、東臺營區と改名して国民軍が使用していた。1977年に国民軍が第3砲側庫(台湾では第2砲側庫)をトンネルの出入口にして海岸の絶壁中腹に「孖砲堡」と呼ばれる5インチの艦砲を備砲とした新砲台を完成させている。現在は孖砲堡も含めて一般開放中。

 

西嶼東堡塁(西嶼東台)←後日UP?

改築:明治34年3月20日

竣工:明治36年3月28日

備砲:安式12インチ(吋)加農砲×4(1座1門)

除籍:昭和10年8月除籍(但し観測所は西嶼東砲台付属砲台に編入)

備考:清領時代の1887年起工・1889年竣工。

 

拱北山第1砲台←後日UP?

起工:明治34年12月1日

竣工:明治37年7月31日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)

除籍:

 

拱北山第2砲台←後日UP?

起工:明治34年12月21日

竣工:明治37年7月31日

備砲:克式15センチ加農砲×6(1座2門)、15センチ臼砲(1座2門)

除籍:昭和10年8月臼砲関連のみ除籍

 

拱北山堡塁←後日UP?

起工:明治35年7月20日

竣工:明治37年8月15日

備砲:小口径速射砲×2

除籍:昭和10年8月

 

拱北山框舎←後日UP?

起工:明治36年2月6日

竣工:明治37年10月30日

備砲:小口径速射砲×2、機関砲×2

除籍:昭和10年8月

 

内按社堡塁←後日UP?

起工:明治36年2月1日

竣工:明治37年9月30日

備砲:克式12センチ加農砲×6(1座2門)、9センチ臼砲×4(1座2門)

除籍:昭和10年8月

 

西嶼西堡塁(東台西堡壘/東昌營區)

起工:明治36年4月25日

竣工:明治37年10月25日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)

除籍:昭和12年に4門に変更

 

米山框舎←場所不明

起工:明治37年12月21日

竣工:明治38年4月6日

備砲:

除籍:

 

竹蒿湾框舎←場所不明

起工:明治37年12月23日

竣工:明治38年2月5日

備砲:

除籍:

 

内按社框舎(五孔碉堡)

起工:明治38年1月28日

竣工:明治38年3月27日

備砲:

除籍:昭和10年8月除籍

備考:清領時代の1888年頃竣工。

 

天南砲台(→天南演習砲台)(馬公金亀頭砲台)←後日UP

起工:明治35年5月20日

竣工:明治37年9月15日

備砲:9センチ速射加農砲×2(1座2門)

除籍:大正2年6月除籍→演習砲台に組替

備考:火砲増築①明治43年28H×2、②昭和5年88式海岸射撃具1組

 

外垵社砲台(外垵餌砲)

起工:大正10年8月12日

中止:大正11年3月31日

備砲:砲塔35センチ加農砲×2(1基2門)

除籍:華府会議(ワシントン海軍軍縮条約)により工事中止

 

猪母水砲台

起工:大正10年9月11日

中止:大正11年3月31日

備砲:砲塔35センチ加農砲×2(1基2門)

除籍:華府会議(ワシントン海軍軍縮条約)により工事中止

 

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旧西嶼西堡塁(西嶼西臺)

起工:1883年

竣工:1889年

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座1門)

除籍:

備考:陸軍は首線の変更により同名の新堡塁を築城した。外周の土塁に粗悪な待避所が2ヶ所あることから、昭和16年11月の本戦備下令以降、何らかの施設をおいて使用していたようだ。戦後に国民党軍により増強された。