[澎湖島要塞]旧西嶼西堡塁(西嶼西臺)

台湾澎湖県西嶼鄉澎湖県西嶼郷

 

旧西嶼西堡塁(西嶼西臺)

起工:1883年←清領時代の砲台

竣工:1889年

備砲:安式10インチ後装砲×2門、安式6インチ砲2門、機関銃6門

除籍:(明治37年10月頃、砲台としては使用中止)

備考:明治37年10月25日竣工した同名の堡塁に移転。

 

 

日本統治時代以前

明・鄭の時代より西嶼東台付近の見張所的な施設と連携して、澎湖島の馬公港および西側と南西側の海域の防衛を担っていた。1870年代以降は外国勢力の侵略が激化したため、清政府は1883年より西臺と東臺という立派な砦を建設した。 1885年3月29日、中仏戦争が起きて甚大な被害を被ったこと契機に、砦をより強固な砲台へと建設着手した。西嶼西臺では12インチと6インチアームストロング社製後装砲×各1門、同型の10インチ砲×2 門、青銅砲2門が装備された。

 

日本統治時代

明治28年4月17日、下関条約によって台湾が清朝から日本に割譲された。明治29年に清領時代の砲台「西嶼西臺」を整備、少人数の部隊が駐屯するようになる。

 

明治34年8月20日、澎湖島要塞計画が改定された。首線の変更等で、西嶼内安集落の南東にある陽山の頂上(標高52m)に、新たに同名の堡塁を築城した(明治36年4月25日に着工/明治37年10月25日竣工)。これにより清領時代からの西嶼西臺(旧西嶼西堡塁)は以後、日本陸軍の砲台/堡塁として使われることはなくなった。

 

堡塁外周の土塁に粗悪な待避所?が2ヶ所、監視哨が1ヶ所あることから、昭和16年11月の本戦備下令以降、何らかの施設をおいて使用していたようだ。戦後、再整備され博物館になり現在に至る。

 

 

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日本統治時代の遺構、とされるもの。

(いずれも戦後、中華民国(台湾)国軍が使用したようだ)

 

退避壕?

東側に面した土塁に2ヶ所ある。

 

2ヶ所の退避壕?

その間に監視哨がある。

敗戦末期の頃の作品かもしれない。

 

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監視哨①

 

内部には特に何もない

 

退出(・ω・)ノ

 

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監視哨②

 

こちらはベンチ付き

 

 

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退避壕?②から①をみる

 

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監視哨

澎湖諸島に数多く設置されている監視省は、大半が屋根なし。往時は木造の偽装屋根があったのかもしれないが。

 

 

 

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日本軍?中華民国(台湾)国軍の遺構?

なんだろ?

 

 

 

日本軍の遺構と思われるものは以上( ̄^ ̄)ゞ

 

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清朝時代の諸施設をサラっと。

 

台湾当局は、施設は保存(耐久)のために、コンクリートで塗り固めてしまう傾向がある。現在のこの姿はオリジナルではない。

 

下記のトンネル上の建造物は日本軍が増築したモノ(だそうな)

 

安式12インチ

 

安式12インチ

 

 

 

終わり

 

 

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澎湖島要塞

台湾海峡の防禦、海軍の要港がある澎湖島の防禦のため設置された。

 

明治28年4月17日、下関条約に基づき台湾を領有する。

大日本帝国陸軍(陸軍)は台湾防衛上の要地を基隆・高雄・澎湖諸島とし、澎湖諸島に澎湖島要塞が築造を決定。明治32年6月に陸軍築城部澎湖島支部が開設され、明治35年2月に澎湖島要塞司令部が開設された。大日本帝国海軍(海軍)は明治34年7月、澎湖島に馬公要港部(高雄警備府)を開設している。

 

明治33年4月〜明治42年3月の間に第一期の要塞工事が終了した。なお日露戦争ではロシア帝国海軍の艦隊は台湾海峡の航行を避けた。

 

南方作戦の実施に備えるため、大正10年8月から増強工事に着手した。だが大正11年2月の華府会議(ワシントン軍縮会議)にて批准された海軍軍備制限条約(同条約の19条)により、海軍基地や砲台工事は中止となった。昭和11年12月に条約が失効されるとロンドン海軍軍縮条約から脱退、増強工事(第二期)を開始した。

 

昭和16年9月、臨時編成令。

同年9月に準戦備下令。

同年11月に本戦備下令、澎湖島重砲兵連隊などが編成される。

昭和20年1月、要塞司令部および要塞重砲兵連隊を復帰。組織は再編されて独立混成第75旅団が澎湖島の守備を担当した(旅団長が要塞司令官の任務を承継)。

 

出典:「現代本邦築城史」 第2部 第10巻 澎湖島要塞築城史

 

出典:「現代本邦築城史」 第2部 第10巻 澎湖島要塞築城史

 

大山堡塁←立入禁止(私有地)

起工:明治33年4月25日

竣工:明治35年6月24日

備砲:安式10インチ(吋)加農砲×4(1座1門)

除籍:

 

鶏舞鳥山堡塁←立入禁止(軍)

起工:明治33年5月15日

竣工:明治35年7月14日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)、小口径速射砲×4(1座2門)

除籍:

 

西嶼東砲台付属砲台

起工:明治33年5月15日

竣工:明治35年7月14日

備砲:9センチ速射加農砲×4(1座2門)、他に機関砲の代わりに9センチ加農砲×2を有す

除籍:

備考:戦後、東臺營區と改名して国民軍が使用していた。1977年に国民軍が第3砲側庫(台湾では第2砲側庫)をトンネルの出入口にして海岸の絶壁中腹に「孖砲堡」と呼ばれる5インチの艦砲を備砲とした新砲台を完成させている。現在は孖砲堡も含めて一般開放中。

 

西嶼東堡塁(西嶼東台)←後日UP?

改築:明治34年3月20日

竣工:明治36年3月28日

備砲:安式12インチ(吋)加農砲×4(1座1門)

除籍:昭和10年8月除籍(但し観測所は西嶼東砲台付属砲台に編入)

備考:清領時代の1887年起工・1889年竣工。

 

拱北山第1砲台←後日UP?

起工:明治34年12月1日

竣工:明治37年7月31日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)

除籍:

 

拱北山第2砲台←後日UP?

起工:明治34年12月21日

竣工:明治37年7月31日

備砲:克式15センチ加農砲×6(1座2門)、15センチ臼砲(1座2門)

除籍:昭和10年8月臼砲関連のみ除籍

 

拱北山堡塁←後日UP?

起工:明治35年7月20日

竣工:明治37年8月15日

備砲:小口径速射砲×2

除籍:昭和10年8月

 

拱北山框舎←後日UP?

起工:明治36年2月6日

竣工:明治37年10月30日

備砲:小口径速射砲×2、機関砲×2

除籍:昭和10年8月

 

内按社堡塁←後日UP?

起工:明治36年2月1日

竣工:明治37年9月30日

備砲:克式12センチ加農砲×6(1座2門)、9センチ臼砲×4(1座2門)

除籍:昭和10年8月

 

西嶼西堡塁(東台西堡壘/東昌營區)

起工:明治36年4月25日

竣工:明治37年10月25日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)

除籍:昭和12年に4門に変更

 

米山框舎←場所不明

起工:明治37年12月21日

竣工:明治38年4月6日

備砲:

除籍:

 

竹蒿湾框舎←場所不明

起工:明治37年12月23日

竣工:明治38年2月5日

備砲:

除籍:

 

内按社框舎(五孔碉堡)

起工:明治38年1月28日

竣工:明治38年3月27日

備砲:

除籍:昭和10年8月除籍

備考:清領時代の1888年頃竣工。

 

天南砲台(→天南演習砲台)(馬公金亀頭砲台)←後日UP

起工:明治35年5月20日

竣工:明治37年9月15日

備砲:9センチ速射加農砲×2(1座2門)

除籍:大正2年6月除籍→演習砲台に組替

備考:火砲増築①明治43年28H×2、②昭和5年88式海岸射撃具1組

 

外垵社砲台(外垵餌砲)

起工:大正10年8月12日

中止:大正11年3月31日

備砲:砲塔35センチ加農砲×2(1基2門)

除籍:華府会議(ワシントン海軍軍縮条約)により工事中止

 

猪母水砲台

起工:大正10年9月11日

中止:大正11年3月31日

備砲:砲塔35センチ加農砲×2(1基2門)

除籍:華府会議(ワシントン海軍軍縮条約)により工事中止

 

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旧西嶼西堡塁(西嶼西臺)

起工:1883年

竣工:1889年

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座1門)

除籍:

備考:陸軍は首線の変更により同名の新堡塁を築城した。外周の土塁に粗悪な待避所が2ヶ所あることから、昭和16年11月の本戦備下令以降、何らかの施設をおいて使用していたようだ。戦後に国民党軍により増強された。