[澎湖島要塞]外按社砲台/外垵餌砲

台湾、澎湖県西嶼郷外垵村

 

外按社砲台

起工:大正10年8月12日

竣工:大正11年3月31日←公式記録

備砲:砲塔35センチ加農砲×2(1基2門) ←未設置

除籍:華府会議(ワシントン海軍軍縮条約)の批准により工事中止

 

 

明治45年の要塞整理計画では、澎湖島要塞の外按社と猪母水にそれぞれ大口径砲「30センチ榴弾砲」を擁す砲台を設置することが勧告されていたが築城は延期された。参謀本部は大正10年公布の「要塞再編要綱」では計画されていた兵器を砲塔35センチ加農砲に変更、同年8月に砲台建設が始まった。だが建設中に日本(と英米仏伊)はワシントン海軍軍縮条約に調印したことで、同条約の19条により大正11年2月27日付けで、日本領内の海軍基地や砲台建設工事は中止となった。

 

 

研究者の吳令丞氏によれば、

大正12年、澎湖島要塞司令部は『外鞍社砲台と猪母水砲台は条約の調印前に備砲を完了していた』ことにするため、陸軍大臣の許可を得て、密かにこの建設中の外按社/猪母水砲台を完成させ(=砲座を作成)、総コンクリート製火砲(=デゴイ)を作成、設置した。

 

・デゴイの設置後、修理目的で運び入れた本物の火砲とデゴイを置き替える予定でいた。だが戦争形態の変化で火砲の交換は行われず放置され、結果的に対空デゴイになってしまった。

検証してみよう。

大正12年陸軍省「猪母水及外按社砲台管理に関する件」によれば、上記とほぼ同じ事が書かれている。

要約すると澎湖島要塞司令官は陸軍大臣宛の意見書(大正12年6月4日付け)で「様々な必要性がありスパイの侵入を防ぐためにも偽装砲台を造らねばならない。スパイらは遠くから写真を撮るか望遠鏡で観察するしか手段はない(からデゴイでもバレない)」のようなことが書かれている。11月には話は纏まったようで修繕名目の予算600円が付いた。

 

デゴイ作成の指令

防禦上、デゴイを置きたい云々の意見書

出典:アジア歴史センター(C03011804700)大正12年陸軍省「猪母水及外按社砲台管理に関する件」

 

澎湖島要塞司令部は陸軍長官に、澎湖におけるスパイの疑いがある外国人(宣教師など)の活動を詳細に報告している。

 

*

​​​​​外按社砲台は西嶼島(漁翁島)の西端、西嶼燈塔/漁翁島燈塔(西嶼灯台/漁翁島灯台)の近くの高台にある。遺構は巨大なコンクリート製の火砲のみ。

 

デカーーーーい ("⌒∇⌒("⌒∇⌒")

 

 

八角形の砲塔(台座)は下部の一辺が約4.4m、上部の一辺が2m、高さ3.7m

砲身の長さは約12.3m

砲身間の距離は約1.93m

砲身の口径は69cm

 

深さ3mまで掘り下げ、排出した土は土塁のように置いた。

 

外垵社砲台で備砲予定だった35センチ加農砲とは、比叡や金剛型戦艦などの初期装備「35.6cm(14インチ)45口径連装砲」を指すのだろうか?

 

 

八角形の台座上部に修理痕があるが、これは米軍の空襲によるもの、だそうで。

 

2003年12月11日、外按社砲台は澎湖県の歴史的建造物として登録され、現在は観光名所として一般公開された。

 

 

ポケモンGOのポケスポット(・∀・)

 

 

終わり

 

 

******************************

澎湖島要塞

台湾海峡の防禦、海軍の要港がある澎湖島の防禦のため設置された。

 

明治28年4月17日、下関条約に基づき台湾を領有する。

大日本帝国陸軍(陸軍)は台湾防衛上の要地を基隆・高雄・澎湖諸島とし、澎湖諸島に澎湖島要塞が築造を決定。明治32年6月に陸軍築城部澎湖島支部が開設され、明治35年2月に澎湖島要塞司令部が開設された。大日本帝国海軍(海軍)は明治34年7月、澎湖島に馬公要港部(高雄警備府)を開設している。

 

明治33年4月〜明治42年3月の間に第一期の要塞工事が終了した。なお日露戦争ではロシア帝国海軍の艦隊は台湾海峡の航行を避けた。

 

南方作戦の実施に備えるため、大正10年8月から増強工事に着手した。だが大正11年2月の華府会議(ワシントン軍縮会議)にて批准された海軍軍備制限条約(同条約の19条)により、海軍基地や砲台工事は中止となった。昭和11年12月に条約が失効されるとロンドン海軍軍縮条約から脱退、増強工事(第二期)を開始した。

 

昭和16年9月、臨時編成令。

同年9月に準戦備下令。

同年11月に本戦備下令、澎湖島重砲兵連隊などが編成される。

昭和20年1月、要塞司令部および要塞重砲兵連隊を復帰。組織は再編されて独立混成第75旅団が澎湖島の守備を担当した(旅団長が要塞司令官の任務を承継)。

 

出典:「現代本邦築城史」 第2部 第10巻 澎湖島要塞築城史

 

出典:「現代本邦築城史」 第2部 第10巻 澎湖島要塞築城史

 

大山堡塁←立入禁止(私有地)

起工:明治33年4月25日

竣工:明治35年6月24日

備砲:安式10インチ(吋)加農砲×4(1座1門)

除籍:

 

鶏舞鳥山堡塁←立入禁止(軍)

起工:明治33年5月15日

竣工:明治35年7月14日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)、小口径速射砲×4(1座2門)

除籍:

 

西嶼東砲台付属砲台

起工:明治33年5月15日

竣工:明治35年7月14日

備砲:9センチ速射加農砲×4(1座2門)、他に機関砲の代わりに9センチ加農砲×2を有す

除籍:

備考:戦後、東臺營區と改名して国民軍が使用していた。1977年に国民軍が第3砲側庫(台湾では第2砲側庫)をトンネルの出入口にして海岸の絶壁中腹に「孖砲堡」と呼ばれる5インチの艦砲を備砲とした新砲台を完成させている。現在は孖砲堡も含めて一般開放中。

 

西嶼東堡塁(西嶼東台)←後日UP?

改築:明治34年3月20日

竣工:明治36年3月28日

備砲:安式12インチ(吋)加農砲×4(1座1門)

除籍:昭和10年8月除籍(但し観測所は西嶼東砲台付属砲台に編入)

備考:清領時代の1887年起工・1889年竣工。

 

拱北山第1砲台←後日UP?

起工:明治34年12月1日

竣工:明治37年7月31日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)

除籍:

 

拱北山第2砲台←後日UP?

起工:明治34年12月21日

竣工:明治37年7月31日

備砲:克式15センチ加農砲×6(1座2門)、15センチ臼砲(1座2門)

除籍:昭和10年8月臼砲関連のみ除籍

 

拱北山堡塁←後日UP?

起工:明治35年7月20日

竣工:明治37年8月15日

備砲:小口径速射砲×2

除籍:昭和10年8月

 

拱北山框舎←後日UP?

起工:明治36年2月6日

竣工:明治37年10月30日

備砲:小口径速射砲×2、機関砲×2

除籍:昭和10年8月

 

内按社堡塁←後日UP?

起工:明治36年2月1日

竣工:明治37年9月30日

備砲:克式12センチ加農砲×6(1座2門)、9センチ臼砲×4(1座2門)

除籍:昭和10年8月

 

西嶼西堡塁(東台西堡壘/東昌營區)

起工:明治36年4月25日

竣工:明治37年10月25日

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座2門)

除籍:昭和12年に4門に変更

 

米山框舎←場所不明

起工:明治37年12月21日

竣工:明治38年4月6日

備砲:

除籍:

 

竹蒿湾框舎←場所不明

起工:明治37年12月23日

竣工:明治38年2月5日

備砲:

除籍:

 

内按社框舎(五孔碉堡)

起工:明治38年1月28日

竣工:明治38年3月27日

備砲:

除籍:昭和10年8月除籍

備考:清領時代の1888年頃竣工。

 

天南砲台(→天南演習砲台)(馬公金亀頭砲台)←後日UP

起工:明治35年5月20日

竣工:明治37年9月15日

備砲:9センチ速射加農砲×2(1座2門)

除籍:大正2年6月除籍→演習砲台に組替

備考:火砲増築①明治43年28H×2、②昭和5年88式海岸射撃具1組

 

外垵社砲台(外垵餌砲)

起工:大正10年8月12日

中止:大正11年3月31日

備砲:砲塔35センチ加農砲×2(1基2門)

除籍:華府会議(ワシントン海軍軍縮条約)により工事中止

 

猪母水砲台

起工:大正10年9月11日

中止:大正11年3月31日

備砲:砲塔35センチ加農砲×2(1基2門)

除籍:華府会議(ワシントン海軍軍縮条約)により工事中止

 

--------

旧西嶼西堡塁(西嶼西臺)

起工:1883年

竣工:1889年

備砲:28センチ榴弾砲×6(1座1門)

除籍:

備考:陸軍は首線の変更により同名の新堡塁を築城した。外周の土塁に粗悪な待避所が2ヶ所あることから、昭和16年11月の本戦備下令以降、何らかの施設をおいて使用していたようだ。戦後に国民党軍により増強された。