[下関要塞/明治期]火ノ山砲台低地観測所群①
山口県下関市みもすそ川町(火の国公園)
★後日、加筆するかも
海正面砲台★早鞆迫門防禦:下関方面
火ノ山第4砲台
竣工:明治24年2月28日
備砲:8センチ榴弾砲×2門(1座2門)、12センチ加農砲×4門(2座4門)、15糎臼砲×4門(2座4門)
設置標高:256メートル(28H)、263.5メートル(12K)、263.5(15H)
目的:海門の東方、即ち早鞆迫門に向かって襲来する敵艦を遠地より射撃ず。尚、時として背後陸地防禦の援助をする。
火ノ山砲台(日ノ山砲台)は昭和10年3月には除籍された上、大東亜戦争前後には防空のための陣地が構築されたためか、昭和23年の米軍撮影の航空写真でも砲座など明確では無い。更に戦後は公園化に伴い大破壊されたため、砲座の位置などよくわからないのが実情。
出典:国土地理院 1948/09/24(昭23) USA-R390-14
浄法寺朝美「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」P.157によれば、『なおこれら砲台(※第1〜第4砲台)の東南方300メートル、標高90メートルに、火の山砲台低地観測所2個を設置した』と記載されている。←4個の間違い(後述)
出典:アジア歴史センターC02030505600「竣工図書進達の件」
出典:アジア歴史センターC07072111100「弧形板備付の件」
これに「出来たよ」的にサラっと書かれている程度。火ノ山砲台(第1〜4)の竣工が明治24年2月28日、低地観測所が出来たよは明治36年2月13日。高所(標高228〜266メートル)にある砲台ゆえ、霧がかかったり等の様々な不都合があったのだろう。
火ノ山砲台群と同じような立地条件の函館要塞(津軽要塞)も、竣工後に高所の各砲台に対応した低地観測所が設置されている。
とはいえ、詳細な資料は無く「ナンダコレハ?」状態だった。そんなとある日、既に火ノ山砲台低観測所の探索を終えている敬愛するスイカ先生のご案内で、低観測所の探索が出来た。正式には旧軍道から入って行くのだが、省略版でご案内いただけた。「こりゃ〜わかんね」でして、毎度ながらスイカ先生ありがとうございます。低観測所の配置図など詳細はスイカ先生のブログをご覧いただきたく。。。
かなーり以前、行政様が登山道整備?公園化しようとした?痕跡のあるとある地点から旧軍道に入ると、陸軍の境界標石があり標高約90メートルちょい下辺りに標石がポツポツ建っている。
(階段は行政様が登山道整備?公園化しようとした?時につくったと思われる石段)
小さい境界標石
鈴木さん???
スイカ先生の解説によれば「鈴木境界標石は、辰のロゴから鈴木商店のもの。鈴木商店の下関進出と火ノ山砲台の廃止予定(決定)の時機が重なるので、軍用地の民有地払い下げでこの一帯は鈴木商店の所有になったのかもしれない」とのこと。
中国醸造株式会社の瓶
中身は焼酎と思われる(^o^)
大正7年創業(広島県廿日市市桜尾)の中国醸造合資会社が、昭和13年に株式化されて中国醸造株式会社となる。この瓶は株式会社時代のものなので、大東亜戦争前後にここに持ち込まれたものだろう。同社社史によれば清酒製造開始は昭和38年からなので、この瓶の中身は焼酎と思われる。なお同社は後の株式会社サクラオブルワリーアンドディスティラリー。
陸軍&鈴木商店の境界標石付近に空き瓶は転がっていた。大東亜戦争前後に西部軍司令部は火ノ山砲台に高射砲陣地を置いたので、兵士の通り道になっていたのかもしれない(軍道あるしタコ壺っぽいものもある)。
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第1砲台用と思われる測量用の石柱(byスイカ先生)
ふと、視線を斜めにすると・・・・
第1砲台用の水準器台と第1砲台低地観測所がみえた(・∀・)
低地観測所は、浄法寺朝美「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」P.157によれば『低地観測所2個を設置した』と記載されているが、スイカ先生の調査で、低地観測所は各砲台用に1個で計4個と判明しました(・∀・)
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明治時代の水準器(英国製の水準器dumpy level)
つづく
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