[豊予要塞]佐田岬第1砲台①(第3/第4砲台)

愛媛県西宇和郡伊方町

 

佐田岬穹窖砲台

起工:昭和20年3月以降

竣工:不明

備砲:鶴見崎砲台から移設された38式12センチ榴弾砲×4門を配置

 

佐田岬観光駐車場(兵舎) から灯台へ至る遊歩道の一帯ある。佐田岬灯台の下の断崖に2門(第3砲台)、灯台の先の大島(御籠島)があり、ここも2門(第4砲台)設置された。佐田岬穹窖砲台についての資料はほぼ見かけず。

 

 

発電所(司令部?)がある入江の南側、椿山と灯台方面に向かって伸びる階段と掘削した道がある。

 

 

佐田岬穹窖砲台①②をつくる時に使ったのだろうか?

派手に崩落しているので真偽不明だが、佐田岬穹窖砲台①②の砲口の直ぐ下に、滑落した道があるように見える(後述)

 

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探照灯関連施設がある椿山から佐田岬灯台へ向かう。

正面に見えるのは大分県の佐賀関一帯

 

 

豊予海峡の濃くみえる手前の島は「高島」

ここにも豊予要塞の高島第1〜3砲台がある。

 

佐田岬砲台からの景色

 

佐田岬穹窖砲台①②(第3砲台)

38式12センチ榴弾砲

 

 

こに辺りに佐田岬穹窖砲台①②の出入口があるはずだが、どうやら埋没しているようだ。

 

 

第3砲台建設時に事故で亡くなった方を慰霊する碑

慰霊碑には兵士3人の名が刻まれている。洞窟内で掘削用ダイナマイトを仕掛けている最中(確認せずに)起爆されてしまったのが原因だとか。

 

穹窖砲台③④は大島(御籠島)にある。

往時は岬と島の間にワイヤーを渡して建設資材を輸送したとか。

 

佐田岬と大島の間に昭和42年、捕獲した海産物を一時的に蓄えておく畜養池を作り、堤防を橋代わりにして陸続きになった。

 

 

平成29年「佐田岬灯台点灯100周年記念」 事業の一環で、大島(御籠島)にある穹窖砲台③④も洞窟式砲台跡として整備された。左翼砲座には三八式十二糎榴弾砲のレプリカが設置された。御籠島には新たに御籠島展望所「永遠の灯」が整備され、佐田岬穹窖砲台①②③④の砲口が視認できる。

 

というわけで法面の大工事まで完工した穹窖砲台③④の出入口

 

穹窖砲台③④出入口から、穹窖砲台①②をみる

 

穹窖砲台①②

迷彩塗装がはっきり確認できる(・∀・)

 

穹窖砲台①②に近づこうと頑張ってみたが、無理ゲーなんで止めた。

 

 

 

では穹窖砲台③④(第4砲台)

 

往時の出入口とは少し違うところにつくった。落盤避け対策が徹底していて、なんだか別モノに来たみたい・・・

 

最奥で二股に分かれる

(どちらも砲台なんですけどねえ・・・・)

 

 

まず、右翼砲台

往時の出入口はこの道から(封鎖)

 

(砲座を改悪して展望台にした)

 

デカい〜(゚ロ゚屮)屮

 

 

ウロコ(^o^)

偵察機による航空写真から写りにくくする為の工夫

 

 

ウロコ(^o^)

偵察機による航空写真から写りにくくする為の工夫

 

では、左翼砲台

 

砲座の手前に砲側庫と思われる掘り込みあり。

 

砲座には38式12センチ榴弾砲のレプリカが置かれている。

この展示はわかりやすい(・∀・)

 

このショボい野砲が配置されるのを見越したのか、天井が低い。

 

砲の前輪は回転台に置かれ、撃つ角度が決まったら、砲の最後部についた金具を扇状の先にある溝に差し込む。こうすることで効率よく角度調整が出来る。

 

「昭和14年のノモンハン事件では、あまりに性能不足のため最前線には出せず」、日露戦争時代の旧式砲野砲を配置されたわけだ・・・射程は5.68kmしかないし。

 

 

 

 

穹窖砲台③(右翼)と④(左翼)

 

 

 

 

終わり

 

 

 

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豊予要塞

瀬戸内海の西の出入口である豊予海峡は、海峡の幅約14kmと狭い水道ゆえ明治時代から重要な拠点として整備されていた。大正8年5月に『要塞整理要領』の裁可により、豊予要塞の構築に着手する。豊予要塞は四国側の佐田岬地区、九州側の鶴見半島地区・佐賀関(関崎・高島地区)の3つの地区から成る。砲台は廃止・新設・移設・計画段階で中止など、めまぐるしい変化があった。

 

昭和17年頃の豊予要塞

(愛媛県の沖ノ島砲台は計画段階で中止)

出典:現代本邦築城史 第2部 第16巻

 

第1期工事の着工は大正10年7月で、佐賀関(大分)と佐田岬(愛媛)の中間に位置する高島に1砲台、佐田岬に2砲台を建設した。その後、豊予海峡のみならず、豊後水道から侵入する敵艦を撃退するために豊後水道海域まで防御ラインを下げて、昭和6年に大分県の鶴見半島に砲塔砲台を完成させて一旦終了した。

 

第2期工事は昭和16〜17年頃。

第1期の砲台の幾つかを廃止したり、備砲を差し替えを行う。暴発事故で全損した鶴見崎砲台(丹賀砲台)に代わる鶴見崎砲台の建設の他、新たに高島に2砲台を新設する。

 

出典:現代本邦築城史 第2部 第16巻

 

第3期工事は昭和20年3月頃。

既存の露天砲台から、本土決戦を見据えた穹窖砲台を新設して、ここに火砲を移設させる工事を行う。終戦時の砲台は高島1〜3砲台(計10門)、佐田岬穹窖砲台(計4門)、鶴見崎穹窖砲台(計4門)、関崎穹窖砲台(計2門)という編成で、火砲は高射砲ではなく速射加農砲/野砲/榴弾砲の類いだった。この頃は、豊予海峡に侵入する敵は潜水艦や航空機ゆえ、豊予要塞のショボい火砲では対応出来ないまま終戦を迎えた。

 

独立混成第118旅団歴史

出典:アジア歴史センター(Ref.C14060991400)独立混成第118旅団歴史 大15.8.1〜昭20.11.13

 

出典:アジア歴史センター(Ref.C14060991400)独立混成第118旅団歴史 大15.8.1〜昭20.11.13

 

高島第2砲台←後日、作成予定

起工:大正10年7月25日

竣工:大正13年1月24日

備砲:7年式30センチ長榴弾砲×4門(昭和14年11月備砲撤去/満州へ?)→38式野砲×2門(昭和20年3月)

設置:標高74m

任務:日振島砲台(※建設予定→中止)及び佐田岬諸砲台と相候シテ高島東南方海面より速吸瀬戸(豊予海峡)に對する敵艦の動作を妨害し且其の航通を謝絶す。

廃止:昭和17年2月10日

 

佐田岬第1砲台

起工:大正13年9月28日

竣工:大正15年11月15日

備砲:7年式15センチ加農砲×4門(昭和19年10月内之浦臨時要塞に転用)→12センチ榴弾砲×4門?

設置:標高75乃至84m

任務:佐田岬南方海面より速吸瀬戸(豊予海峡)に對する敵艦の動作を妨害し且其の航通を謝絶す。

 

佐田岬第2砲台

起工:大正15年11月1日

竣工:昭和2年10月31日

備砲:7年式30センチ短榴弾砲×4門(昭和9年2月撤去/満州へ?)

設置:標高46m

任務:日振島砲台(※建設予定→中止)及び高島諸砲台と相候シテ佐田岬南方海面より速吸瀬戸(豊予海峡)に對する敵艦の動作を妨害し且其の航通を謝絶す。

廃止:昭和17年2月10日

 

鶴見崎砲台(丹賀砲台/砲塔砲台)

起工:昭和2年6月16日

竣工:昭和6年9月16日

備砲:45口径30センチ加農砲(巡洋戦艦伊吹の後部砲塔)×2門(砲塔1)→昭和17年1月11日腔発で全損。その代替として38式12センチ榴弾砲×4門と20ミリ機関砲×2門を設置→昭和20年に12センチ榴弾砲全門とも佐田岬穹窖砲台へ移設。

設置:標高52m

任務:鶴見崎東南方海面より豊後水道及び佐伯湾に對する敵艦の動作を妨害し日振島砲台(※建設予定→中止)と相候シテ且其の航通を謝絶す。

廃止:昭和17年7月14日

 

高島第3砲台←後日、作成予定

起工:昭和8年9月12日

竣工:昭和9年6月30日

設置:標高122.50m/137m

備砲:斯加式12センチ速射加農砲×4門(対馬要塞大平低砲台より移転)

 

高島第1砲台←後日、作成予定

備砲:38式野砲×2門(昭和16年11月18日当時)→斯加式9センチ速射加農砲×2門(昭和16年12月23日以降)

設置:標高113m周辺

 

鶴見崎第1砲台(15加)

起工:昭和17年3月12日

竣工:昭和17年9月30日

備砲:45式15センチ加農砲×4門→昭和20年に鶴見崎穹窖砲台に移設

設置:標高246m

任務:豊予海峡に侵入する敵潜水艦及び軽艦艇を勉めて南方に阻止することにあり

 

佐田岬穹窖砲台(第3/第4砲台)

鶴見崎第2砲台から移設された38式12センチ榴弾砲×4門を配置

 

関崎穹窖砲台

新たに38式野砲×2門を擁す穹窖砲台を築城

 

鶴見崎穹窖砲台

鶴見崎第1砲台から移設(45式15センチ加農砲×4門)

 

 

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