対馬要塞(明治期/第2期)城山砲台(金田城)①

対馬市美津島町黒瀬

 

(7)城山砲台

起工:明治33年4月20日

竣工:明治34年11月10日

備砲:28cm榴弾砲4門(砲座2)

標高:232m

目的:芋崎砲台と同じ/浅茅湾(浅海湾)口及び湾内一帯の海面を射撃し、敵艦の進入及び湾内の碇泊を妨害す

廃止:大正2年4月廃止決定→大正6年8月全部除籍

 

(引用:対馬砲台あるき砲台

 

城山砲台

対馬要塞の第2期工事中、3番目に竣工した砲台。

第2期の砲台群のうち尾崎砲台群以外は、日清戦争後~日露戦争前に竣工している。

 

芋崎砲台と同じく、浅茅湾(浅海湾)口及び湾内一帯の海面を射撃し、敵艦の進入及び湾内の碇泊を妨害す目的として築城された。

 

対馬砲台あるき砲台に書かれていること。

美津島町黒瀬にそびえる巨大な岩塊・城山(じょうやま)は、667年に古代山城が築かれ、日露戦争前の明治34年には城山砲台が構築されるなど、常に国防の最前 線として重要な役割を果たしてきました。あまり知られていませんが軍施設跡から1キロ程歩くと城山付属堡塁があります。城山では、古代と近代の要塞めぐりを楽しむことができます。

金田城がある城山は、浅茅湾(浅海湾)西側、外浅茅の南縁にある。飛鳥時代の天智天皇6年(667年)11月に築城された朝鮮式山城で、西日本各地に築城された古代山城の中では朝鮮半島への最前線に位置する。築城のきっかけは663年、倭(=日本)と百済の連合軍が、唐と新羅の連合軍と戦った「白村江の戦い」に敗れたこと。金田城を築城し、防人(国境守備兵)が派遣された。7世紀末頃に修築、8世紀初頭以後には廃城化したと推測される。

 

対馬要塞司令官に着任(昭和3年3月付)した瀧原三郎少将は、大正11年の調査を受けて「城山=金田城である(と断言し)、ここが対馬要塞の起源である」と述べている。昭和23年の再調査を経て昭和57年、学術的に城山=金田城と断定された上で、国の特別史跡に指定された。

 

城山砲台は、この金田城(廃墟)がある城山の山頂近くに築城された。

 

県道24号洲藻と箕形の間に金田城入口の看板があり。ここから車で3分ほどで登山口に到着。駐車スペースは乗用車5台ほど。登山口付近に兵舎があったようだ。山頂まで往復5.4キロ、付属堡塁までは+2.4キロ。

 

 

 

明治33年4月に着工した城山砲台の軍道。

路肩の排水設備も良く残っている。

金田城の石塁の石(石英斑岩)を崩して用いているようだ。

 

 

素晴らしい景観を眺めながら上がって行く

 

 

 

なんらかの軍事施設があったっぽい凹み

 

 

 

なんらかの軍事施設があったっぽい凹み

 

陣地っぽい①

 

 

 

塹壕

 

 

 

 

城山砲台に到着(・∀・)

濾過式貯水槽と井戸がお出迎え

 

 

城山砲台の配置(ほぼ横一列)

(城山付属砲台)ーーーーーーーーー共通の兵舎?ーー弾薬庫ーー濾過式水槽ー左翼砲側庫ー左翼砲座(1座2門)ー右翼砲側庫ー右翼砲座(1座2門)ーーー観測所と掩蔽部

濾過貯水槽を通り過ぎた辺りで、右と左に道が分かれる。右に行けば城山砲台、左に行けば弾薬庫と兵舎を経て城山付属砲台に。まず、弾薬庫に行く。

 

弾薬庫

 

 

 

水は生命線

城山の山頂部にあるため、雨水の確保に余念が無い

 

 

弾薬庫は斜面を削って、その凹みに弾薬庫を建てた

 

 

向かって左側の側面に窓あり

最奥はコンクリートだ。

 

 

 

 

 

 

両側面に窓あり

 

 

側面の壁も分厚い!

 

天井の換気孔

 

換気塔

 

 

では・・・・

城山砲台に行く(戻る/右に行く)

 

 

 

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左砲側庫

 

 

 

砲側庫内は丸みをおびた造り

 

 

まるで洋館のようなつくり(・∀・)

 

 

左翼砲座

 

 

 

 

 

 

28センチ榴弾砲

出典:佐山二郎「機関砲 続要塞砲」p.265より抜粋

 

日露戦争時、28センチ榴弾砲の砲床工事の写真

出典:佐山二郎「機関砲 続要塞砲」p.265より抜粋

 

左翼砲座と右翼砲側庫の辺り

 

つづく

 

 

目次(陸軍①)★★目次(陸軍②要塞以外)★★目次(海軍)★★目次(その他)

 

 

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対馬要塞(明治期)

明治18年、英国軍艦による巨文島占領(朝鮮)、対馬海峡への度重なるロシア帝国艦船の動き等により、対馬(対馬海峡)の重要性が認識された。対馬は北部と南部に分かれており、その境に複雑な地形の浅茅(あそう)湾(浅海湾)がある。江戸時代の1671年に掘削した大船越瀬戸(運河)を航行すると、小型船舶に限定されるが浅茅湾(浅海湾)から三浦湾に抜けられた。

 

明治20年〜21年の4砲台はいづれも浅茅湾(浅海湾)湾内の防禦のために置かれた。浅茅湾(浅海湾)の竹敷には日本海軍の艦隊前進根拠地があり、4砲台が築城された(第1期)

 

日清戦争前後で対馬は朝鮮半島からの近さだけではなく、戦略上の重要性が強く認識された。明治29年には竹敷に海軍要港部が設置され、明治30〜33年には陸軍対馬警備司令部と対馬要塞砲兵隊が難知に移った。明治33年には新たに万関運河が開削されて、浅茅湾から対馬東水道間の航行が大型船舶も可能になった。そこでこれら防禦のため、浅茅湾の湾口から対馬東水道周辺に11の砲台(と堡塁)が築城された(第2期)

 

明治43年に朝鮮併合した日本にとって、大陸への交通路を確保することが最重要課題となる。対馬海峡と朝鮮海峡の防備強化のため、対馬は北の鎮海要塞(韓国)と南の壱岐要塞の中軸として、対馬の北部と南部に要塞火砲を置き、海峡全域を防禦することになる。大正から昭和初期にかけて10の砲台が築城された(第3期)

 

なお第3期では要塞の砲台以外にもに防空砲台、海軍は対馬各地に防備衛所などを築いている。

 

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明治期の砲台(第1期/第2期)

出典:現代本邦築城史第2部第2巻

 

(1)温江砲台

起工:明治20年4月23日

竣工:明治21年8月3日

備砲:12cm加農砲4門(砲座2)

標高:16m

廃止:明治31年1月廃止決定→除籍日不明(四十八谷砲台の竣工を以て)

 

(2)大平(低)砲台

起工:明治20年4月21日

竣工:明治21年10月7日

備砲:斯加式12cm速射加農砲4門(砲座4)

標高:19m

廃止:大正2年1月廃止予測→昭和9年8月全部除籍

 

(3)芋崎砲台

起工:明治20年4月26日

竣工:明治21年10月21日

備砲:28cm榴弾砲4門(砲座4)

標高:75.71m

廃止:大正6年8月全部除籍

 

(4)大石浦砲台

起工:明治20年9月11日

竣工:明治21年10月28日

備砲:28cm榴弾砲6門(砲座6)

標高:79.56m

廃止:明治31年1月廃止決定→除籍日不明(四十八谷砲台と大平(高)砲台の竣工を以て)

 

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(5)四十八谷砲台 ←後日執筆予定

起工:明治31年8月15日

竣工:明治33年3月31日

備砲:28cm榴弾砲6門(砲座1)

標高:20m

廃止:大正2年4月廃止決定→昭和9年8月全部除籍

 

(6)大平高砲台

起工:明治31年10月20日

竣工:明治34年10月5日

備砲:斯加式12㎝速射加農砲4門(砲座2)

標高:66m

廃止:大正2年4月廃止決定→昭和9年8月全部除籍

 

(7)城山砲台

起工:明治33年4月20日

竣工:明治34年11月10日

備砲:28cm榴弾砲4門(砲座2)

廃止:大正2年4月廃止決定→大正6年8月全部除籍

標高:232m

 

(8)城山附属砲台

起工:明治33年4月20日

竣工:明治34年11月10日

備砲:9cm臼砲4門、野砲2門

標高:平時は格納

廃止:大正2年4月廃止決定→大正6年8月全部除籍

 

(9)姫神山砲台

起工:明治33年2月1日

竣工:明治34年11月15日

備砲:28cm榴弾砲6門(砲座3)

標高:170m

廃止:昭和8年予備火砲(45式15)整備の後に廃止決定

 

(10)折瀬ヶ鼻砲台←後日執筆予定

起工:明治33年12月1日

竣工:明治35年4月30日

備砲:斯加式12cm速射加農砲2門(砲座1)

標高:10m

廃止:昭和16年8月備砲移転により撤去

 

(11)上見坂堡塁

起工:明治34年8月1日

竣工:明治35年11月30日

備砲:9cm加農砲4門(砲座2)、7cm速射加農砲4門(砲座4)

標高:9加390m、7速加368m

廃止:昭和9年8月全部除籍

 

(12)根緒堡塁

起工:明治34年8月1日

竣工:明治35年11月30日

備砲:28cm榴弾砲4門(砲座2)、12cm加農砲4門(砲座2)

標高:28榴307m、12加315.6m/282.6m

廃止:昭和11年2月全部除籍、12加282.6m設置の2門を武隈山堡塁に移す

 

(13)郷山砲台

起工:明治37年8月11日

竣工:明治38年10月1日

備砲:28cm榴弾砲4門(砲座2)

標高:226m

 

(14)樫岳砲台

起工:明治37年9月10日

竣工:明治39年2月6日

備砲:28cm榴弾砲4門(砲座1)

標高:182m

廃止:昭和11年2月全部除籍

 

(15)多功崎砲台

起工:明治38年2月19日

竣工:明治39年5月19日

備砲:克式24cm加農砲2門(砲座2)

標高:144.6m

廃止:昭和11年2月全部除籍

 

以後、昭和期の13砲台群につづく

出典:現代本邦築城史第2部第2巻

 

 

 

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