[意賀美神社/奉納]7.5糎加農砲身(発条式)、砲弾

大阪府枚方市枚方上之町1丁目12番地

 

京阪電車「枚方市駅」から「枚方公園駅」方面に約500m、万年寺山(標高50m)の山頂にある。元は現在地から約100m南の旧伊加賀村字宮山に鎮座していた。創建の年代は不詳だが、第9代開化天皇(前157〜前98年)治世の頃、伊香色男(日本書紀などに出てくる豪族で物部氏の遠祖)の邸宅の敷地内に鎮座していたとのこと。明治5年に村社に列格した延喜式内の古社。

 

明治42年10月14日、須加神社(現鎮座地の万年寺山)と日吉神社(岡村)は意賀美神社に合祀され、翌10月15日に万年寺山の須加神社境内に遷座。同年12月に神饌幣帛料供進社に指定された。社殿・社務所は昭和10年に再建された。境内には磁場の反転がおこるパワースポットがある。

 

 

本社社殿の後方には明治神宮と伊勢神宮の遥拝所がある

 

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忠魂碑

 

陸軍第4師団が日露戦役での戦没者慰霊のために建立した。砲身には「忠魂碑」、第4師団長(18代)中将菱刈隆の銘がある。砲身の裏に張られていたはずの建立時期云々が剥離したため不明だが、師団長在任期から判断して昭和4年頃のものと思われる(昭和3年11月説あり)。

 

出典:佐山二郎「要塞砲」p.35、抜粋

 

昭和3年に大阪造兵廠で製造され、昭和5年4月29日「除幕式と招魂祭」を挙行と記録される、という話があるが、海軍の艦載砲、多分、ロシア帝国製カネー式50口径75mmだろう。ロシア帝国の艦載砲(副砲)で、一部は旅順要塞などの海岸砲として設置された。

 

ロシア帝国製(ライセンス生産)カネー式50口径75mm単装砲

75-мм пушка Канэと推測される。

 

日露戦争後、日本陸軍が旅順要塞から鹵獲して「7糎半速射加農砲」として各要塞に整備したが、後年、下附されたようだ。大東亜戦争時は戦時供出を免れるため、地中に隠し、戦後、再度建てて昭和期戦没者も合祀した、とのこと。

 

7糎半速射加農砲(発条式=スプリング式)

忠魂碑/第四師団長陸軍中将菱刈隆/昭和参年拾壱月建之

 

 

大きい砲弾は安式十二吋加農堅鉄弾

出典:アジア歴史センター(C01006148600)廃兵器払下の件

 

小さい方の砲弾(下に落ちているやつ)は38式10加鋳鉄破甲榴弾?

 

 

 

 

 

 

 

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閑院宮載仁親王演習御観戦所の碑

ここに万年寺が建っていたが、明治3年の廃仏毀釈で廃寺になった。現在は意賀美梅林。

 

閑院宮載仁親王は伏見宮邦家親王第16王子。大正元年に陸軍大将、同8年に元帥の称号を賜い、昭和6年参謀総長に就任、同15年退任。昭和20年5月死去。

 

裏書き「大正7年12月陸軍将官演習、昭和4年3月陸軍参謀本部将官現地戦術演習にあたり御観戦あらせ給ふ」、昭和11年3月建立

 

淀川が一望できる好地。

現在は梅林の少し下、御茶屋御殿跡展望広場からの方がよくみえる。

 

 

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