[内之浦臨時要塞]⑤波見砲台

鹿児島県肝属郡肝付町波見1580(戸柱神社)

 

志布志湾南部の沿岸部の山々には波見砲台、内之浦要塞砲台(有明砲台)の2つの重砲陣地、少し内陸の大塚山拠点にも重砲陣地があるので、15センチ以上の砲を持つ重砲陣地は計3ヶ所になる。

 

出典:戦史叢書57巻 本土決戦準備<2> -九州の防衛-』(防衛庁防衛研修所戦史室)付図第4「第86師団(大隅集団)の志布志湾沿岸における配備計画図(昭和20年8月頃における)」、抜粋・加工

 

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波見砲台

「大隅史談会」のホームページによれば、

①波見の戸柱神社横にある階段から権現山を登り始め、藪をかき分けて進み3ヶ所の砲台跡を確認できました。

 

②砲台跡の標高は、高いもので約60m、低いもので約30mの位置にあります。砲台跡はもう一か所あるとのことで、引き続き調査が必要です。

 

③3砲台跡は、昭和17年(1942年)に旧高山町が建てた「神武天皇御発航伝説地」の石碑近くの山中にあります。急峻な斜面を下りた所にあるので、一人で行くのは危険です。

との情報をいただいた。

 

戦史叢書によれば、波見砲台の備砲は下記の通り

・野砲:1門

・10センチ榴弾砲:3門

・12センチ加農砲:4門

・8センチ加農砲:2門

 

戸柱神社(創建年代不詳。高山宗社豊受神社の摂社と伝えられている)の横から権現山を登っていく。目的地は権現山の山麓にある波見公園(神武天皇御発航伝説の石碑)である。

 

波見公園に着く手前、古めの石垣が組まれた「怪しい雰囲気の場所」があった。

 

道を逸れて藪漕ぎしながら進んでいくと、1つめの砲台を発見。波見公園(神武天皇御発航伝説地)の少し下にあった。。

 

おお?

 

 

 

砲台の偽装が玉石だ(・∀・)

 

 

 

砲室も砲口も埋まってしまっているので全容がわからない。

何が備砲されていたんだろ?

 

 

 

砲室への出入口を探しに上部へあがるも見当つかず。

掩蔽部の換気塔っぽいものがあるのみ。

 

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他の砲台を探索しに上がるのだが・・・・

 

 

植生が濃くて掻き分けるのが大変過ぎ・・・

一旦、撤収となりました(。・ω・。)

 

出典:国土地理院 1953/05/18(昭28) USA-M168=34、抜粋

 

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神武天皇御発航伝説地

波見には、神武天皇による日本建国の神話=「神武東征」に関連している伝承がある(日本書紀巻三/神武記)。

 

出典:昭和41年刊『鹿屋市史上巻』

 

天照大神の直系子孫である彦火火出見=磐余彦(神武天皇)は、宮崎県佐野原で誕生、肝属平野で成人された。38歳頃、父(鵜茅草葺不合命)が亡くなり第5代倭国王に就任。現在の東串良町三王屋敷辺りに宮を造り、父の大隅半島統一を引き継ぐ。40歳頃、高千穂宮(鹿児島神宮)にて、兄弟や臣下に東征発議(東に政治を行うに理想的な土地=中州=橿原がある。皆でここに行って建国しよう)を宣言。日子穂々出見命に第6代倭国王位を譲る。

 

45歳頃、東征出航の準備が整った彦火火出見=磐余彦(神武天皇)ご一行は、波見港(肝属川の河口)から出航。時は紀元前(西暦)78年後半(諸説在り)3月10日のこと。東串良地域には古くから毎年3月10日に凧を揚げる習俗と、船を沖に出して遠見をする慣習がある。出航の時、土地の人々が日和見/凧を揚げて見送ったことのかもしれない。。

なお、波見港を出航した狭野命一行が、次に到着したのは志布志湾の北、海上約17キロ先の夏井港。夏井の御磯(神武天皇は志布志夏井の御磯から御船出になった)という言い伝えがある。以後、宮崎県から速吸之門(豊予海峡)→宇佐(大分県)→岡水門(福岡県遠賀川河口)約1ヶ月半滞在→埃宮(広島県府中市)→高島宮(岡山県岡山市)で3年間滞在→難波の碕(大阪市北区天神橋)→白肩の津(生駒山山麓):以上海上輸送。白肩の津(生駒山山麓)から大和上陸→紀(和歌山県)→熊野→宇陀(奈良県)→橿原(奈良)。所要年数は約6年間。

 

石碑には「昭和15年」「高山町長」「鹿児島県知事」の名前が刻まれている。
なお昭和15年は、神武天皇即位から2600年目で、国家的な式典が行われた、とのこと。

 

 

 

終わり

 

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