[内之浦臨時要塞]権現島水際陣地

鹿児島県志布志市志布志町帖

 

日本がポツダム宣言を受諾・無条件降伏しなければ、連合軍は南九州地域を制圧するOLYMPIC operation(オリンピック作戦)を実行しただろう、と言われる。連合軍は昭和20年11月1日、兵力約76万人で、鹿児島県の志布志湾(大隅半島東海岸)、吹上浜(薩摩半島西海岸)、宮崎県の宮崎海岸の3方面から同時に上陸する作戦を立案している。

昭和21年3月1日に関東地区に上陸、東京などを占領する「コロネット作戦」も計画されており、2つの作戦は合わせて「ダウンフォール作戦」と呼ばれる。

日本軍はこの情報を早くにほぼ正確に掴んでおり、本土決戦を見越して様々な準備を行った。第86師団(大隅集団)は昭和19年8月以降、南九州に転出している。主に都城(宮崎県)以南の大隅半島の防衛を任じ、「志布志湾に上陸するであろう敵軍を殲滅(志布志湾口の閉塞)、志布志湾から飛行場がある鹿屋への滲透の阻止する」ために、主力は志布志湾沿岸にあって、本土決戦用の沿岸骨幹砲兵陣地の築城ならびに訓練に専念した。

 

出典:戦史叢書57巻 本土決戦準備<2> -九州の防衛-』(防衛庁防衛研修所戦史室)、P.336より抜粋

 

志布志地区隊は歩兵第187連隊基幹が担当。

主力を持って原田、飯山、西谷、志布志各拠点を堅固に守り、「志布志砲兵群及び水際部隊」をもって敵を水際で殲滅すると共に、その上陸に際しては砲兵火力及び前地の戦闘と相俟って活発な戦闘により、これを陣前に殲滅する。

志布志湾は大隅半島東岸に面した円弧状の湾。鹿児島県肝属郡肝付町火崎から宮崎県串間市の都井岬まで、その円弧状の湾岸総延長は約80km。それらを結ぶ湾口は約20kmほど。志布志湾は敵軍の3個師団が並列して上陸できる長さがある。

 

湾内の権現島や枇榔島はもちろん、志布志湾に沿った総延長16キロの台地に、防御陣地や穹窖砲台など、長期戦に備えた要塞を構築した。志布志湾だけで約2,000人を超える将兵が駐屯したようだ。

 

出典:戦史叢書57巻 本土決戦準備<2> -九州の防衛-』(防衛庁防衛研修所戦史室)付図第4「第86師団(大隅集団)の志布志湾沿岸における配備計画図(昭和20年8月頃における)」、抜粋・加工

 

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権現島水際陣地

志布志の港の南端にある前川の河口、権現島に水際陣地(砲兵掩体陣地)がある。志布志湾岸の主部は砂丘だが、権現島は入戸火砕流(シラス)の固い部分(岩)で構成されている。権現島の前は南に向かって砂浜も広がっていたため、連合軍の上陸地点のひとつとされた。

 

 

この島に連合軍の本土上陸に備え、地下壕と狙撃陣地が造られた。現在は地下壕の一部と銃眼が残っている。昭和43年に外港地区の埋め立て工事に伴い、現在は陸続きになった(防波堤を辿って歩いて行ける)。

 

 

 

蛭児神社の鳥居を通り過ごし進むと、水際陣地の地下壕出入口がみえる。

 

 

 

 

地面から約1.5メートルの所までをコンクリート補強をしている。側面や背後のコンクリート(もしくは岩)は今は無いが往時はあったのろう。砲兵掩体陣地とのことなので、何らかの野砲が置かれていたようだ。

 

銃眼の斜め左上にもスリットがある

 

 

 

外から銃口をみる

ほぼ地面の高さだが、往時はもっと高低差があったように思う。

 

 

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2つめの銃眼

封鎖されている地下壕内に銃室があるので、外から確認するのみ。こちらの銃眼は石垣でカモフラージュしている。

 

 

 

 

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銃室(砲室)の横に、地下壕の出入口がある

 

 

地元の方が毎日掃除をされているとのこと。

 

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権現島を登ってみた。

山の中腹と標高32.8メートルの山頂に祠がある。

 

 

山頂から、連合軍が上陸するであろう志布志湾をみる(笹竹でよくみえないが)。

 

 

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志布志湾南部

出典:戦史叢書57巻 本土決戦準備<2> -九州の防衛-』(防衛庁防衛研修所戦史室)付図第4「第86師団(大隅集団)の志布志湾沿岸における配備計画図(昭和20年8月頃における)」、抜粋・加工

 

志布志湾南端の海蔵地区には、穹窖砲台で構成する内之浦要塞砲台(有明砲台)の重砲陣地が7ヶ所(備砲は15センチ加農砲7門:計画は8門)、観測所3ヶ所、150糎探照灯1器があったようだ。

 

重砲の内訳は下記の通りだが、どの砲が何処に配備されたかは不明。

・96式15糎加農砲 2門

・45式15糎加農砲 1門

・7年式15糎加農砲 4門
 

 

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