[中島飛行機]浅川地下壕
「浅川地下壕の保存をすすめる会」主催の見学会に参加した。
地下壕は京王高尾線脇の「イ地区」、金比羅山・三和団地下の「ロ地区」、初沢山の「ハ地区」の3地区に分かれている[。3地区の坑道の総延長は10キロメートル以上と推測されている。
公開されているのは「イ地区」のみ。イ地区でも高乗寺が地権者の部分は見学できるが、操業部の見学は地権者が異なるため不可。
出典:浅川地下壕の保存をすすめる会
大本営が設定した「絶対国防圏」が危うくなった昭和19年1月頃、大本営陸軍部の移転計画が浮上した。大本営移転の発案者とされる陸軍参謀井田少佐の回想によれば「第1候補に八王子(浅川)を選んだのは、東京に近く、手頃な山が多く地下施設がつくりやすいから」。
だが上官である陸軍次官富永中将は、同年5月頃に「八王子案は東京に近いが狭くてダメ、信州辺りを探せ」と極秘特命を出す。八王子(浅川)は都心から四十数キロしか離れていないのも危惧したようだ(この時点で八王子=浅川案は消えた)。同年9月、大本営陸軍部と皇族の避難壕は長野県の松代に決まった。
昭和19年7月頃、陸軍省は各軍司令部の緊急軍事地下施設「地下倉庫」の建設決定。陸軍省は運輸通信省に請負内命を出し、鉄道建設工業株式会社(官民合作の国策会社)は民間のゼネコンに工事発注をしている。このうち五大地下倉庫と呼ばれたのが、下記の地下壕と用途の変遷。
①松代(長野県)大本営
②浅川(東京都八王子)大本営予定→東部軍→中島飛行機
③楽田(愛知県)中部軍→三菱重工業
④高槻(大阪)中部軍→川崎航空機
⑤山家(福岡)西部軍→第16方面軍司令部
昭和19年8月28日付け、陸軍大臣からの工事命令「ア(8.28)工事」、つまり、八王子(浅川)に軍需品備蓄倉庫(浅川倉庫)の建設が開始された。建設隊長は陸軍加藤少佐(建技)、請負は佐藤工業。加藤少佐は長野県の松代大本営(松代倉庫)と両方の建設隊長を兼務していた。なお松代の工事は同年10月以降に開始された。
浅川地下壕は、朝鮮人労働者約500人、東京鉄道教習所来宮分教所の生徒139人も動員された。硬砂岩(固めの岩盤)をダイナマイトで発破、コンクリート打設はなく素掘り。第一期工事は「イ地区」で、昭和20年2月に坑道は完成している。
昭和20年1月から始まった第2期工事(ロ地区/ハ地区)は、中島飛行機武蔵製作所の疎開工場として設計・施工された(請負は佐藤工業と新たに大倉土木)。
海軍工作学校の練習生が動員された他、斎藤勉「秘密地下工場 中島飛行機浅川工場」によれば、掘削に携わった朝鮮人労働者は佐藤工業500人、大倉土木100人、青木組500人の合計2,100人。昭和20年6月現在、南多摩郡には2,800人の朝鮮人がいたとされるので、数は妥当だろう。朝鮮新報では朝鮮人労働者は2,000~6,000人としている。
昭和19年11月24日、陸海軍向けの航空機エンジン組立工場である中島飛行機武蔵製作所(東京府北多摩郡武蔵野町西窪/東京都武蔵野市)に米軍機による初空襲。被害は軽微だったが同年12月の空襲で、武蔵製作所の疎開が決定された。
昭和20年4月、中島飛行機武蔵製作所は第1軍需工廠第11製造廠(通称:皇国3813工場)と改称され、事実上国営化された。武蔵野製作所は昭和19年半ば時点で、日本の全航空機のエンジンの27%を生産していた。
昭和20年1月、中島飛行機武蔵製作所(第1軍需工廠第11製造廠)の移転先が浅川地下壕(浅川倉庫)に決定、その名称が「第11製造廠浅川工場」となる。
計画では3地区合計の床面積32,800平方メートル、工作機械1,200台、同年7月操業開始。地下工場(イ・ロ・ハ)でエンジン部品を製作し、丘に分散させた小さな掩蔽部でエンジン(発動機)の最終組立を行う(下記の赤丸)。
出典:浅川地下壕の保存をすすめる会
終戦時の地下工場の床面積は23,900平方メートル
イ地区80%、ロ地区80%、ハ地区65%(合計75%)
据え付けられた工作機器は330台、搬入したが未設置は95台だったが、通常の工作機器(旋盤や研磨機など)はほぼ備え付けられていた。工作機器の8割はアメリカ製。坑道内の電線敷設など整備は大倉土木が担当した。
昭和20年2月5日、運輸通信大臣より大和運輸(のちのいわゆるクロネコヤマト)に対して、武蔵製作所の疎開物資の輸送を命じ(契約期間は3ヶ月間、以後契約続行)、光自動車輸送隊を編成して搬出作業を開始した。
武蔵作業所は、8回目の空襲後の4月20日には熱処理作業を除く生産活動を中止した。
同年6月、浅川工場では、航空機向けエンジンを月産300台の予定/4,000人体制で製造を開始した。地下壕特有の湿気と低温、空気調整と排水設備が不十分だったため、工作機械はグリースが塗られ油紙で覆われていたのにもかかわらず大半が腐食、工員の体調不良から製造効率は悪かった。
操業が停止された同年8月17日までの稼働約1ヶ月間で、完成されたエンジンは約10台、大量のシリンダーヘッド(第3坑道内)、約300個のクランクケース(第4坑道内)、エンジン部品の未加工品が多数貯蔵されていた(出典:USSBSの調査報告書)。別の離れたところにある2本の小さな地下壕では、組立中のエンジンが18台あった。
昭和20年10月24日、USSBS (United States Strategic Bombing Survey) =米軍戦略爆撃調査団が地下壕を調査。その後、イ地区の工作機械は持ち出され完全に閉鎖された。昭和49年に地元の大信工業]が「イ地区」を買い取り、元陸軍参謀本部跡として公開も半年後に公開中止。マッシュルーム栽培やワイン貯蔵庫に使われた。
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イ地区は硬砂岩と粘板岩(固めの岩盤)で、これをダイナマイトで発破して掘り進めた。初沢地区では排出されたズリが今も確認できる。
出典:斎藤勉「秘密地下工場 中島飛行機浅川工場」、P.123
ズリ出しと排水の関係で、東西に延びる主坑道は勾配がつけられている。
出典:浅川地下壕の保存をすすめる会
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では入壕しよう。
集合場所に封鎖された坑口があった
見学会では民家の裏手の坑口から入る
この坑口は連絡道の南端の東側にある。
下記の図の「出入口」がコレ。
デカいッ!
①
碁盤の目に掘られている坑道。
分岐点
②
坑道の白い部分は「かび」
坑道は概ね幅4.6メートル×高さ3.7メートル、長さは170〜370メートル。掘削には手掘りも一部採用されたが、大半は大型の掘削機「N-75」が使用された。施工された掘削方法は様々。
坑道内に残る朽ちた材木。杭木(支保工)か?と思ったら、マッシュルーム栽培時につくった木棚の残骸らしい。
杭木は戦後すぐ、住宅の再建のため、近隣住民や業者が根刮ぎ持ち出した。
この見学会、テレビ朝日の取材陣が同行している。
③
イ地区の操業地区は別の所有者の管理地になっており、鉄格子で仕切られて立入不可。この先が操業地区で、マス目状の地下壕になっており工作機械が据え付けられていた。
柵から操業地区をみる
往時の写真・・・・
出典:斎藤勉「秘密地下工場 中島飛行機浅川工場」、見開き、P.124ー125
坑道(作業場)は概ね幅4.6メートル×高さ3.7メートル、長さは170〜370メートル。
稼働していた坑道は6本
①シリンダーヘッド
②シリンダー筒
③クランクシャフト
④⑤プロペラシャフト
⑥エンジン付属品
稼働していた6本の坑道内では部品運搬のため、坑道2本には狭軌レール(トロッコ)が敷設、坑道1本にはローラーコンベアが装備されていた。
*
では引き返して、東側の連絡坑道に移動する。
④分岐点
⑤
東大が設置した地震計で説明
東側の連絡道(操業地区とは反対側)
床に落ちている礫がないので往時の雰囲気がわかる
⑥
穿孔の跡
イ地区での掘削は発破工法が採用された。穿孔→装薬→爆破→換気→ズリ出し→杭木(支保工)を繰り返す。
掘削したズリを運び出すためのトロッコ用レールの枕木の設置の跡。何となくわかる程度。枕木も持ち去られた。
⑦交差路
落盤があった箇所
漏水で石灰が溶け出した箇所もある
⑧
イ地区南端の坑道の交差部分。
大きな空間になっている。1999年にここで約3トンのダイナマイト入り木箱が発見された。1箱に90本のダイナマイトが入るようなので、何箱見つかったのだろう?
ここの坑道は鉄骨で保護されている。ダイナマイト入り箱の撤去作業に先駆けて安全対策で設けられたもの。天井〜側面にかけて落盤防止の吹付も施された。
とおーーーくに見える坑口は最初に写真紹介した閉鎖された坑口
では、帰りますか!
外、暑ッ!
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ロ地区:金比羅山・三和団地地下に掘られたが完成率75〜80%で未完(特に連絡坑は未完)。岩盤が弱く落盤もしている。1980年代末から地下壕の存在を知らず三和団地の開発が進むが、工事中に陥没等が発生し、存在が知られる。2002年4月に三和団地の下に掘られた地下壕は、陥没事故を防ぐために埋め戻された。2014年3月「ロ地区」の大部分が八王子市の市有地となった。
出典:斎藤勉「秘密地下工場 中島飛行機浅川工場」、見開き
ハ地区:掘削途中で終わっている(完成度65%)。計画図を無視した堀り方で、計画図に無い坑道が掘られていたりする。
出典:斎藤勉「秘密地下工場 中島飛行機浅川工場」、見開き
地上設備:大倉土木、青木組、海軍工作学校、陸軍東部軍経理部特設作業隊などが建設を担当した。山の斜面を掘削して、鉄骨柱で板葺き屋根の作業場をつくった。屋根には木を乗せて偽装した。主な用途は最終組立作業場、倉庫、事務所など。地上設備は場所は様々、大きさや規模も様々だが、図面をみる限り1つ1つは大きくは無い。
昭和20年8月2日午前2時頃、八王子にB-29が169機、69万個の焼夷弾を落とした。旧市街地は80%が焼失、八王子市役所、八王子駅、郵便局、電話局、国民学校6校、東京陸軍幼年学校などが焼失した。死者396人、傷者約2000人、罹災戸数1万4000戸。
参考資料
浅川地下壕の保存をすすめる会「フィールドワーク 浅川地下壕―学び・調べ・考えよう」
斎藤勉「秘密地下工場 中島飛行機浅川工場」
青木孝寿「松代大本営 歴史の証言」
米軍戦略爆撃調査団報告書「日本の航空機の地下生産浅川工場」
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