[小倉城]②4年式15糎榴弾砲

福岡県北九州市小倉北区城内2-1

 

明治8年4月1日、歩兵第14連隊が編制され、小倉城(勝山城)に連隊司令部をおいた。西南の役(明治10年)では乃木希典少佐(連隊長)に率いられて出征している。明治31年11月に第12師団が新設され、小倉城内に第12師団司令部と監督部が置かれ、歩兵第14連隊はその隷下にはいる。

 

 

第12師団は日露戦争やシベリア出兵を経て、大正14年に久留米に移転した(廃止された第18師団の跡地)。小倉城内指令部跡には第12師団隷下の野戦重砲兵第2旅団司令部が入る。だが小倉城南部(現在の勝山公園)に東京工廠の移転が決まると、昭和3年頃(諸説在り)に北方兵営(陸上自衛隊小倉駐屯地)に移駐した。

 

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4年式15センチ榴弾砲(野戦重砲)

 

4年式15糎榴弾砲は野砲と同じ6馬輓曳で運搬できるように、分解・運搬できた。具体的には砲身を外し、砲架はそのまま砲架車(2,199kg)に、車輪と車軸は砲身車(2,146kg)にして、馬6頭で輓曳する。移動状態から結合して放列布置までには約10分、放列砲車から分解して移動撤収に移るまでには約12分を要した。

 

4年式15糎榴弾砲は大阪砲兵工廠で280門生産された。第1次上海事変から戦線に配備され、大東亜戦争全般にかけて広く使用された。展示品は大阪工廠・大正13年(1924年)製。

 

 

 

 

 

 

 

 

うーーーーん、垂直鎖栓式閉鎖機は欠損している

 

佐山二郎『大砲入門』

本砲(4年式15糎榴弾砲)の構造上の特色は、前述の二車分解式のほかに、特異な形状の垂直鎖栓式閉鎖機がある。これは一挙動で開閉でき、他に類例がない。

 

 

復元記念碑
四年式十五珊榴弾砲 砲身車(大正13年製)

この野戦重砲の特徴は砲架車と砲身車に区分し機動力増大、湾曲弾道の利用と発射速度の増強は用兵技術の進歩戦略の妙と共に我が國野戦砲の雄と稱賛された

紀元2036年 昭和51年7月吉晨 有志建之

 

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この大砲の弾薬
この弾丸は榴弾(重さ36キロ)といいますが、この外に榴霰弾(弾子1050箇収容)、破甲榴弾、発煙弾等があって堅固な陣地や構築物の破壊或は密集部隊等に対し、夫々の目的用途によって使用されました。薬筒には色々な薬包を装薬して発射されましたが、その射距離は約9000mに達しました。

紀元2642年  昭和57年12月吉晨

 

 

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