[小倉城]①第12師団司令部正門・歩兵第12旅団司令部正門

福岡県北九州市小倉北区城内2-1

 

小倉城は戦国末期の1569年、中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まる。本格的な築城は関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興が約7年の歳月を要して完成させた。忠興は商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにした。

 

その細川氏が熊本に転封になり、1632年に播磨国明石から、細川家とは姻戚関係にある譜代大名の小笠原忠真が九州諸大名監視という特命を受けて入った。幕末期では小倉は長州藩を攻める第一線基地となる。九州諸藩で積極的に戦ったのは小倉と熊本だけだったため、1866年、自ら小倉城に火を放って戦線を後退した。

 

明治8年4月1日、歩兵第14連隊が編制され、小倉城に連隊司令部をおいた。西南の役(明治10年)では乃木希典少佐(連隊長)に率いられて出征している。明治31年11月に第12師団が新設され、小倉城内に第12師団司令部と監督部が置かれ、歩兵第14連隊はその隷下にはいる。

 

 

第12師団は日露戦争やシベリア出兵を経て、大正14年に久留米に移転した(廃止された第18師団の跡地)。小倉城内指令部跡には第12師団隷下の野戦重砲兵第2旅団司令部が入る。だが小倉城南部(現在の勝山公園)ssに東京工廠の移転が決まると、昭和3年頃(諸説在り)に北方兵営(陸上自衛隊小倉駐屯地)に移駐した。

 

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第12師団司令部の正門

明治31年11月、歩兵第12旅団(小倉)と歩兵第24旅団(久留米)、下関要塞砲兵連隊を統括する第12師団が新設され、その司令部庁舎が小倉城本丸跡に建てられた。

 

 

 

 

 

 

歩兵第14連隊以外の部隊は北方兵営に駐屯した。司令部庁舎はいつ消滅したのかは不明。

 

明治32年6月から約3年間、第12師団の軍医部長を努めたのが森鷗外。

 

※ 森鴎外は饅頭を割ってごはんの上にのせ、煎茶をかけて食べるのが好物だった(饅頭茶漬け)

 

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歩兵第12旅団司令部の正門

 

 

小倉城松の丸跡。ここに既設の歩兵第14連隊と福岡の歩兵第24連隊を管轄する「歩兵第12旅団司令部」が開設された。昭和3年頃(諸説在り)に北方兵営(陸上自衛隊小倉駐屯地)に移駐した。

 

門柱は赤レンガを積んだもの。レンガとレンガの継ぎ目は「覆輪目地」と呼ばれるかまぼこ形に膨らみを持たせる工法がが取り入れられている。

 

 

 

 

この門柱は、いつの工事か定かではないが、素敵なレンガ積みは方解石を混ぜた洗い出しモルタル(擬石)で覆われている(もったいない)。

 

 

 

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