島津荘総鎮守神柱宮(神柱大明神)
宮崎県都城市小松原町1417-1
島津荘の総鎮守。鳥居の色は灰色。
天照皇大神と豊受姫大神を主祭神とし、天津彦火瓊々杵命と天手力雄命、天津児屋根命、万旗秋津姫命、天太玉命と、5柱の神を相殿に祀る。
拝殿の右側、45センチ魚雷が1本と型名不祥の30センチ砲弾が2本奉納されている。
石盤を読むと
・30センチ砲弾:2個(呉海軍軍需部)
・45センチ魚形水雷頭部共:1個(佐世保海軍軍需部)
下附請願書は大正15年1月に都城市長と神社社司の連名で出されている。
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45センチ魚雷38式2号B
明治45年製・佐世保海軍軍需部
口径:45センチ、全長:5.19メートル、重さ:663キロ
星型四気筒エンジン熱走型
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30センチ砲弾
呉海軍軍需部
型名不祥
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神柱宮の由緒など
萬壽年間(1024~1028年)、太宰府より大監職の平季基が無主の荒野であった日向国諸県郡島津一帯を開墾して、関白の藤原頼通に寄進され島津荘(荘園)となる。季基は伊勢の神宮へ赴き皇大神様の御分霊を奉戴して、1026年9月9日、諸県郡中郷村大字梅北字益貫に創建奉祀されたのが「島津御荘總鎮守神柱宮」の始まり。
島津荘は様々な有力者から所領の寄進を受けて拡大し、日本でも最大級と言われる規模の荘園にまでなった。領主は平安末期に藤原摂関家から平家へ移り、鎌倉幕府成立で幕府に没収される。没収された島津荘の領主は藤原摂関家筆頭の近衛家となる。
1185年、惟宗忠久(鎌倉幕府御家人)が摂関家領島津荘下司職に任命され、忠久は荘園の名を取り「島津」を称す。所領の寄進を受けながら次第に荘園は拡大し、島津荘はすでに日本最大の荘園になっていた。源朝死後、1203年の比企の乱では、北条氏に滅ぼされた比企能員の縁者だからとして大隅、薩摩、日向国の守護職を没収された。1205年に薩摩国守護職のみ回復する。
第3代当主・島津久経が元寇を機に下向して以来、南九州への在地化が本格化。第5代当主の島津貞久以降、南九州に土着した。
明治6年5月25日に縣社に列格、同年10月28日に現在の地への遷座祭が盛大に斎行された。
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