[海軍兵学校]③防空壕など

広島県江田島市江田島町国有無番地

 

海軍兵学校は東京築地(旧海軍操練所)から明治21年(1888年)8月江田島に移転し、世界3大兵学校と称された。戦時中、連合軍は海軍兵学校の戦後利用を考えたのか、空襲などは行っていない。

 

 

見所は2つの校舎(現在の幹部候補生学校と第1術科学校)、職員庁舎、教育参考館、大講堂、戦艦 陸奥 の4番主砲、特殊潜航艇甲標的や海龍など。

 

海軍兵学校の跡地は幹部候補生学校と第1術科学校など、になっている。

見学の案内→海上自衛隊第1術科学校

紹介→海上自衛隊第1術科学校主要構内施設(建物)

以下、見学できたところを記す

 

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防空壕

 

西門近くに3基あり。

空襲が無かったため未使用とのこと。戦闘指揮所のような性格をもった地下壕で、長期間の籠城に耐えられるよう貯水槽も完備している、とのこと。

 

 

 

 

 

 

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教育参考館の北側の展示物

40口径安式15センチ砲

サイパン島で沿岸砲として使われ、戦後放置されていたものを当時堺市議会議員の加藤均氏が買い上げ、バラバラに分解して日本へ帰国させた。

 

 

 

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36センチ1式徹甲弾

ガダルカナル島のルンガ飛行場(ヘンダーソン飛行場)に対する、日本軍の夜間砲撃で着弾した弾、とのこと。昭和60年2月、不発弾処理を施してから帰国。翌年、江田島に移設されます。不発弾処理で弾が裂けている。

 

 

 

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戦艦「大和」

45口径46センチ砲(主砲)、91式徹甲弾

 

 

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駆逐艦「雪風」の主錨

昭和15年1月20日、佐世保海軍工廠において竣工。陽炎型8番艦で、スラバヤ沖海戦から坊ノ岬沖海戦を経て、大きな損傷を受ける事なく、唯一終戦まで生き残る終戦後、中華民国(台湾)に賠償艦として引き渡され丹陽と改名、同国海軍の主力艦として活躍した。昭和46年 12月頃に解体されたらしい。

 

 

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45口径3年式41センチ連装砲

大正10年10月24日、横須賀海軍工廠において竣工

昭和9年9月5日〜昭和11年9月30日、横須賀海軍工廠において大改装が行われた。第4砲塔がある場所にカタパルトを取り付けるため、第4砲塔を陸に下ろした。昭和9年に教材として海軍兵學校に移設された。

 

 

隣の建物は砲術講堂とのこと。

 

「水交館・陸奥砲塔を巡る特別なコース」が早く再開されますように。

 

 

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他、「おおおおお〜?あれは?」と声が出るものも多かったけど、何せ90分間しか時間が無いので説明を受けられず。残念。

 

 

 

 

 

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