[海軍兵学校]①校舎など構造物

広島県江田島市江田島町国有無番地

 

海軍兵学校は東京築地(旧海軍操練所)から明治21年(1888年)8月江田島に移転し、世界3大兵学校と称された。戦時中、連合軍は海軍兵学校の戦後利用を考えたのか、空襲などは行っていない。

 

 

見所は2つの校舎(現在の幹部候補生学校と第1術科学校)、職員庁舎、教育参考館、大講堂、戦艦 陸奥 の4番主砲、特殊潜航艇甲標的や海龍など。

 

海軍兵学校の跡地は幹部候補生学校と第1術科学校など、になっている。

見学の案内→海上自衛隊第1術科学校

紹介→海上自衛隊第1術科学校主要構内施設(建物)

以下、見学できたところを記す

 

*

大講堂

大正6年(1917年)4月竣工。能村知二(呉海軍経理部建築家)の設計で、石・煉瓦・鉄骨造2階建。主な用途は海軍兵学校生徒の入校式や卒業式など。

 

 

外壁は瀬戸内海産の御影石。大講堂の出入口は、舞台がある方に車寄せ付き主賓用玄関(天皇陛下や皇族用の方々専用)と、その他の人々の出入口、計2ヶ所。

 

主賓用玄関(天皇陛下や皇族用の方々専用)

向かって左の部屋がソファなどがある応接間

向かって右の部屋が椅子やテーブルがある小会議室

シャンデリアは舵輪、らしい

 

その他の人々の出入口

 

大講堂の内部はドーム型の吹き抜け。

 

 

大講堂内の正面の舞台中央には「玉座」があるが、海軍兵学校時代は天皇陛下の名代として皇族の臨席を得た。

 

 

 

 

 

 

 

 

*

海軍兵学校第2生徒館

明治26年(1893年)3月竣工。煉瓦造2階建。

窓以外、出入口や玄関に扉はない。

 

「本校舎の赤煉瓦は一つ一つ紙に包まれ軍艦でイギリスから運ばれた」

 

 

 

イギリス人建築家ジョン・ダイアック氏の設計。建築当初は日本瓦で葺かれていたが、昭和38年6月(安芸灘地震)で被害を受けてスレート葺きに変更した。戦後3回の改修を経て現在の姿になる。

 

 

 

 

 

大講堂側の廊下

(こちら側は非公開だが撮影許可・立入許可済み)

 

 

 

 

第1術科学校学生館(海軍兵学校西生徒館)側の廊下

 

 

 

現在は幹部候補生学校庁舎として使われている。

 

「初級幹部自衛官として勤務させるのに必要な知識と技能を習得させるための教育訓練機関です。防衛大学校、一般大学、防衛医大の卒業生のほか、部内からの幹部候補生が教育を受けています」とのこと。

 

*

高松宮宣仁親王専用のトイレ

当時皇太子殿下だった昭和天皇の実弟である高松宮宣仁親王が、大正9年(1920年)5月8日海軍兵学校予科に入学する際、トイレの他、宿舎(総檜造/現在は高松宮記念館)などを建造している。いづれも大正9年に完成。当時のままの状態で現存されているが非公開。高松宮殿下は第52期/大正13年7月卒になる。

 

今はトイレ機能は取り除かれ、とあるものの倉庫になっている。

 

 

以後、伏見宮博信王殿下、山階宮萩麿王殿下、伏見宮博英王殿下、朝香宮正邦王殿下、朝香宮正邦王殿下、朝香宮正邦王殿下、朝香宮正邦王殿下が在籍された。

 

*

海軍兵学校西生徒館

昭和13年建造。当初は淡い黄色の鉄筋コンクリート造3階建(1998年の改装で4階建に増築)。

現在は第1術科学校学生館として使われている。

 

 

*

海軍兵学校教育参考館

昭和11年(1936年)建造。鉄筋コンクリート造2階建。

山下寿郎(山下寿郎建築設計事務所)の設計。

 

海軍兵学校卒業生の積立金と一般企業等の寄付によりつくられた。敗戦までは約4万点の歴史的資料と東郷平八郎と山本五十六の遺髪室が収められていた。

 

 

敗戦後、進駐軍による没収を恐れて、一部の貴重な資料を厳島神社、大山祗神社等に奉納し、半数以上が焼却処分された。現在は返却された資料や旧海軍関係の資料、隊員の遺品など、約1万6000点を保存されている(約1000点が展示)。

 

*

海軍兵学校庁舎

昭和16年11月22日竣工、鉄筋コンクリート製/2階建

校長室を含む職員庁舎

 

土塁のように土堤があるが、この下には待避壕がある。

 

 

 

みどころは

空襲警報機!

 

 

 

目次(陸軍①)★★目次(陸軍②要塞以外)★★目次(海軍)★★目次(その他)