[沖縄戦]沖縄方面根拠地隊司令部壕(海軍司令部壕)①

沖縄県豊見城市字豊見城236

 

当地へは何回か訪問しているので、撮影時期が異なる写真が入り交じっています

 

 

矢印の順に進む

 

信号室

内部はコンクリートの柱的なものがオブジェっぽくあるが、これは戦後につくられたもの。往時は素掘りで杭木(支保工)で支えられていた。戦後、何者かが司令壕内の杭木(支保工)を持ち出している。

 

 

反対側の出入口からみる

 

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メイン通路

奥は北出口へ、手前は南出口へ

南出口は現在、出口として使われている。

コンクリート補強がされているが往時は殆ど素掘り。

 

 

司令部壕

基本、素掘りで杭木(支保工)で崩落を防いでいるが、地盤が頑丈なため崩落はほぼない。コンクリート打設されているのは、作戦室・幕僚室・司令官室・発電機室とされる3室のうちの2室のみ。作戦室・幕僚室・司令官室のみ、漆喰塗りも施されていた。司令官室などは畳敷きだった。

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作戦室

室内はコンクリート打設漆喰塗り

 

 

 

 

幕僚室へ通じる通路がみえる

 

メイン通路方向をみる(振り返る)

 

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作戦室から幕僚室への通路

 

 

 

 

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幕僚室

幕僚室には出入口が3ヶ所ある。室内はコンクリート打設漆喰塗り。

 

 

 

手榴弾痕と言われる痕跡①

 

 

手榴弾痕と言われる痕跡②

 

 

ええええ〜?

違うでしょう・・・・

 

作戦室方向をみる(振り返る)

 

説明板

「司令官室 作戦室に近いこの部屋は、幕僚が手榴弾で自決した時の破片の跡が、くっきりと残っています。当時のままの部屋です」

 

幕僚は6人おり、全員、大田司令官と共に司令部室で自決をしている

 

自決方法は「喉が切られていた」という昭和20年6月15日(自決2日後)の検証(写真在り)。昭和28年3月に遺骨収集時に頭蓋骨に弾の貫通穴が確認されたとの検証の2通りあり。拳銃で自決した後、誰かが喉を切った?←真偽不明です!

 

では幕僚室の手榴弾とみられる破片痕は何か?

 

昭和20年6月15日の検証、同年8月27ないし28日頃の検証では、いづれも司令部壕を出た辺りで検証員が、壕内に潜んでいる残存兵に手榴弾を投げつけられている。その後も米軍は何度か壕に入っているが、司令官室に到達できず兵を失っている。この痕はこれら捜索時に投げつけられた手榴弾痕ではないか?

 

田村洋三「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史」では、「沖根玉砕で将校が自決した時のものである」と断言しているが、退避的な地下壕ならともかく、司令部壕内の将校が手榴弾で自決しますかねぇ・・・?

 

 

 

 

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司令官室

右の凹みは衛兵所ではないだろうか。。

 

 

醜米覆滅

 

 

大君の御旗のもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけ理

(幕末の志士・田中河内介綏猷の詩)

 

司令官室は出入口が2ヶ所

反対側から見る

 

左の凹みは衛兵所ではないだろうか。。

右の大きな凹みはベッド(寝台)?

 

 

 

 

 

昭和20年6月13日午前1時。大田司令官と共に司令官室で自決したのは6人の幕僚。前川大佐(首席参謀)、棚町大佐(連合艦隊兼沖根参謀)、羽田大佐(護部隊司令)、鈴木中佐(21空廠小禄派遣隊)、小山少佐(軍医長)。山田少佐(機関参謀)は「総員脱出せよ。壕は爆破させる」と言い終わらないうちに何発かの銃声。山田少佐は先の6名の遺体を整列させて寝かせ横に日本刀を置き、各人の胸の上に手を合掌させ、一連の作業が済むと自身も拳銃で自決した、とされる。

 

神州不滅

 

司令官室から南北のメイン通路をみる

 

づづく

 

参考資料

南西諸島方面電報綴

八原博道「沖縄決戦」

田村洋三「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史」

旧海軍司令壕(一般財団法人 沖縄観光コンベンションビューロー旧海軍司令部壕事業所)

 

 

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