八戸要塞(通称):是川地区④15K砲台
出典:新編八戸市史近代資料編戦争(付図)より抜粋
(詳細な地図だが、塹壕もトーチカも全て同じ赤丸で記されているため、コンクリ系構造物目当てで探索すると情報が少ないだけにつらいものがある。構造物の多くは私有地内にあり、出入口封鎖、破壊、埋没等により、往時の姿で内部進入可能なものは少ない)
八戸市の旧南郷村。国道340号線(登り街道)は是川地区と天狗沢地区の間を通る。陸軍は是川も天狗沢を重要な防御陣地として考えていたようで、コンクリート製トーチカや掩体などが多いところ。とはいえ、ここも開墾、戦後の鉄需要での破壊、地主の考え方などで、多くの遺構が消滅している。特に天狗沢地区は壊滅状態、とのこと。
昭和19年秋、「私有地の山に軍(設営隊)がやってきて、有無も言わせず防御陣地を構築し始めた」と地主様談。これには根拠となる法律はなかった。
昭和20年になってようやく法整備に着手。同年3月20日、第86回帝国議会に「軍事特別措置法」案を提出、3月20日に成立、3月28日公布された。私有地に軍の防御陣地等を構築する根拠を、昭和20年法律第30号「軍事特別措置法」第2条(政府の必要ある時は・・・)で示した。これが廃止されたのは昭和20年10月23日(昭和20年10月24日勅令第604号)。
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89式15センチ加農砲台(15K砲台)×1門
是川地区の山の東端、新井田川と川岸を走る県道138号線、是川の盆地を見下ろせる地に15センチ加農砲台があるが、下からは見えないよう(?)妙な角度で設置している。
15Kの周囲には未完の地下壕、交通壕が残る
稜線に軍道があり、なかなかの景色を歩いて行く。
と、突然、15Kの出入口が現れた!
(案内が無ければ辿り着けない)
砲室を飛ばして・・・砲口をみる
15センチ加農砲の砲身を格納する凹みもある!
砲室、広いッ!
備砲予定の火砲:89式15センチ加農砲
砲室に向かって左に砲側庫がある。
砲室以外の部屋はここだけ。
15Kを搬入するためか、出入口の間口は大きい。
砲床は明確に残っている。
差波様の話によれば「備砲は無かった」とのこと。
では砲口から帰ります!
偽装網を掛けるフック付き
砲口からの景色
天狗沢にも同じ15Kの砲台があるが、こちらは「開口部の全て封鎖」しているとのこと。
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概要
昭和17年6月のミッドウェイ海戦で、日本軍は大敗。以後、太平洋地域の制海権・制空権を失っていく。昭和19年7月に絶対国防圏の中核拠点のサイパン島が陥落する。
昭和19年5〜7月、南西諸島・伊豆諸島の他、本土の沿岸防衛における戦備強化として、八戸平野・鹿島灘正面・房総地区(九十九里浜)に重点を置く決定が成された(皇土防衛作戦要綱/本土沿岸築城実施要項)。本土決戦の準備のための築城は、同年10月末までに既成、同年年末までに完成させるとした。
出典:八戸地域の戦時遺構に関する研究、P.24より抜粋
八戸地区には国内有数の石灰石鉱山があり、セメント・鉄鋼・アルミ生産など軍需品の産地でもある。昭和12年に「国土防衛工業立地地域」に指定されている。八戸以北は上陸に適した砂浜の海岸線が点在、仙台より防衛力が低く人口も少ない。米軍(連合国)に八戸地区が取られると、八戸市高舘にある陸軍八戸飛行場から首都東京への空襲(爆撃)が可能になる。
八戸地区は東部軍が管轄しており、東部軍司令官は「昭和19年10月13日に沿岸築城を下令、工事完了は昭和20年1月末日」とした。57師団が築城に従事した(昭和20年3月中旬から独混95旅団→157師団→308師団が担当)。
・是川・館・島守地区:コンクリート製(重機関銃等)防御陣地の構築 ※現存
・是川(と天狗沢):89式15センチ加農砲×2門 ※現存
・天狗沢:対戦車兵器の仕掛け
・中居林地区:28センチ榴弾砲×1門 ※消滅
・鮫:斯式12センチ加農砲×2門、野砲2門 ※消滅
・蕪島:(海軍)魚雷発射施設 ※埋没
大本営は昭和20年2月に関東地方・東海地方・九州地方を本土における作戦準備の重要拠点に示し、同年3月発表の国土築城実施要項では「具体的な計画を示しながら同年7月に全陣地の骨格を概成、10月までを目処に完成せよ」と通達している。
出典:八戸地域の戦時遺構に関する研究、P.24より抜粋