[沖縄戦]摩文仁

沖縄県糸満市摩文仁

 

摩文仁丘では昭和20年1月12日より、第24師団歩兵第89連隊第2中隊によって、複数の坑道式防御陣地の構築が開始されていた(陣中日誌:自昭和20年1月1日至昭和20年1月31日)。

 

 

昭和20年5月27日21時10分、首里の軍司令部壕を出発した第4梯団(軍司令官・高級参謀他約50名)は、経由地の津嘉山に向かい翌日未明に到着。津嘉山軍司令部壕から摩文仁へ先遣隊を出す。

 

津嘉山軍司令部壕は、南部の島尻方面に敵主力が上陸することを想定して、第2野戦築城隊等が築城した。昭和19年7月〜年末まで掘削工事を行いほぼ完成したが、坑道の強度不安や戦場の展望が利かないことから、第9師団が使っていた。

 

 

昭和20年5月29日、先遣隊(木村・三宅参謀)は、摩文仁の陣地=89高地の南斜面にある軍司令部壕予定の自然洞窟をみて「軍司令部としては機能を果たさず」と電報を打電したものの、第32軍首脳陣は翌30日未明に津嘉山を出発、夜明け前に摩文仁に到着した。

 

摩文仁89高地の南斜面にある軍司令部壕予定の自然洞窟から、南側の海岸まで約250メートルしかない。開口部(坑口)は海岸方面にしか向いていないため、戦況の把握は難しい。

 

 

 

トーチカもある

 

 

八原博道(高級参謀)の手記「沖縄決戦」によれば、津嘉山司令部壕を出発・南進すると、束里(ワイトゥイ)〜摩文仁は敵軍の砲撃はなく、摩文仁の部落は戦禍の跡が無かったようだ。

 

第2野戦築城隊第1・第2中隊が、摩文仁92高地西端(山の8合目付近)にある自然壕を「軍司令部壕」として機能するよう、さらなる改良工事に着手している。89高地(山頂)には監視哨が置かれている。

 

八原高級参謀が垂坑道と呼ぶ、軍司令部壕の出入口

 

琉球石灰岩の自然洞穴を加工した壕。開ロ部は2カ所で摩文仁集落方面と海岸方面(絶壁上)に向いている。内部通路はほぼ中央部で直角に折れ曲がり、 総延長は約100m強。

 

この摩文仁集落方面の出入口付近から海岸方面の約20メートルは漏水が多かったが、参謀部付き将兵はここに天幕を張って任務を遂行し、睡眠を取ったとのこと。またここは防衛上、弱点が多い出入口。米軍が摩文仁を占拠しそうになった6月21日、摩文仁集落方面の出入口を洞窟内にあった岩石で封鎖している。

 

司令部壕は野戦築城隊の尽力で、数日間のみ、電燈がついた。敵の哨戒艇が乱射をはじまると断線するため中止。以後、発電用のガソリンや蝋燭を灯火に使用した。

 

 

出典:八原博道「沖縄決戦」、P.367より抜粋・加工

 

摩文仁の司令壕や周辺の壕には慰安婦ではない「お世話係」なる多くの女性がいた(数名の妓女もいたようだが)。彼女らは首里の軍司令壕から自らの意思で南進してきたという。他、鉄血勤皇隊(沖縄師範・沖縄水産学校の男子学生)が司令部の世話をしている。彼女・彼らは狭い司令部壕に収容できないため、付近一帯の洞窟で寝泊まりした。

 

八原博道(高級参謀)の手記「沖縄決戦」によれば、島田沖縄県知事と荒井沖縄警察部長が摩文仁司令部壕を訪れている。

 

89高地(山頂)には監視哨がおかれた。

昭和20年6月22日の白昼、この監視哨は陥落した。

 

 

 

 

監視哨からみた司令部壕の位置

 

 

 

 

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第32軍司令壕から断崖下に小径を下ると、巨岩がゴロゴロある地域で洞窟も多い。ここが鉄血勤皇隊(沖縄師範・沖縄水産学校の男子学生)の生活区域だったようだ。

 

 

 

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鉄血勤皇隊:沖縄師範学校男子部の壕

摩文仁の軍司令部壕から海岸に降りる階段。ここを下りきった地点の左側下方に見える岩塊の下にある。岩塊下の空間の広さは約10m四方メートル余。

 

 

鉄血勤皇隊の任務は、司令部の世話、伝令、食料調達、斬り込みなど。

 

 

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ここは唯一の給水源のエリアだったため、巨岩群の中のいくつかの洞窟が烹炊場になった。発電所もこの地域にあった。

 

 

鉄血勤皇隊慰霊碑

 

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唯一の給水源

湧き水

 

 

 

6月4日までは平和だったようだが、米軍の哨戒艇から狙われるようになり、泉(水くみ場)も敵の攻撃対象下に入る。ここは唯一の給水源なので「死の泉」と恐れられようが、水を汲みにくる。米軍に狙撃され命を落とす人々が多かった。合掌。。。

 

 

 

 

6月4日、敵の哨戒艇が摩文仁に向かって掃射を開始する。

 

6月5日、予定していた軍の退却作戦は完了。

首里退却時に兵力約4万、喜屋武半島陣地到達は約3万だったようだ。予め喜屋武半島に「全軍の1ヶ月分の糧秣」の備蓄がされている。個々が携帯するものを加算すれば2ヶ月間の持久戦が行える計算だった。具志頭には数百人が収容できる巨大な洞窟があり、前進基地として機能させている。

6月7日以降、喜屋武半島でも戦闘が始まる。米軍は戦車集団を投入。

6月10日、具志頭が陥落。戦闘は漸次激化し戦況は悪化の一途。

6月11日、小禄半島に戻らされた海軍部隊、全滅。

6月17日、米軍のバックナー中将から降伏勧告文が届く(6月14日に出す)。

 

6月18日、盤石だった第24師団方面でも防衛線が崩壊した。第44混成旅団司令部は米戦車群の砲撃を受け、摩文仁の東方1,500mの鞍部付近まで侵入。全軍の崩壊は数日のうちに迫ると予想。

第32軍最後の文書になる命令書「最後まで敢闘し悠久の大義にいくべし」を出す。沖縄北部でもゲリラ隊がまだ戦っているとの情報があり、牛島中将は北部部隊に合流するよう残存部隊に命令を出した。

6月19日、参謀4名、ゲリラ戦指揮の命を受け出立する

八原高級参謀の手記によれば

第32軍の薬丸兼教情報参謀(中佐)はゲリラ戦指揮を提案する。具体的には「第32軍の組織的抵抗が崩壊したら、(第32軍の)各参謀は(便衣兵となって)米軍占領地内に潜入し、各所に残存する小部隊を糾合操縦して遊撃戦を行うべき。参謀は指揮官ではない。ここで死ぬ必要はない」

 

この意見具申を牛島軍司令官に提出、軍司令官は「木村参謀は沖縄本島南部地区、薬丸参謀は同北部地区において遊撃戦に任ずる。また八原高級参謀・三宅参謀・長野参謀は本土に帰還し、戦況戦訓を報告するよう」と命令した、とのこと。

 

出発は6月19日、最終目的地は具志頭。行き方は時の状況次第。八原高級参謀だけは牛島軍司令官と長参謀長の自決に立ち会い(自決日未定)、第32軍司令部の最期を見届けて出立することになった。八原以外の4人の参謀は6月19日に出立した。なお三宅は八重瀬岳東麓、木村は与那原西方において戦死。薬丸・長野は消息不明。

6月21日、米軍の戦車二十数輌が摩文仁に現れる。この夜、陸軍参謀総長(梅津陸軍大将)と陸軍大臣(阿南陸軍大将)連名の決別電報を入手。

 

同日夜、牛島軍司令官が、第5砲兵司令部司令官の和田中将宛の命令書「沖縄戦の戦訓報告ならびに本土決戦作家のため、本土に帰還せしむべし」を書く。八原高級参謀はゲリラ戦指揮ではなく、本土帰還の方法を模索する。

 

6月22日未明、獅子奮闘していた第24師団から決別の伝令。摩文仁の松井小隊が全滅。敵の戦車砲が摩文仁の軍司令部壕に集中砲火、89高地(山頂)を占領される。八原高級参謀によれば当初の予定では「司令部将兵をもって山頂を奪還し、23日黎明摩文仁部落砲口に玉砕突撃を敢行。牛島軍司令官と長参謀長は山頂において自決」だった。

鹿屋基地から零戦の特攻隊が最後の出撃した。以後、鹿屋基地の零戦隊は本土決戦に備えた。鹿屋基地以外の特攻隊も、以後、沖縄方面には散発的に出撃する程度だった。

6月23日には米軍に包囲され、6月23日午前4時半に牛島軍司令官と長参謀長が、軍司令壕の開口部(副官部出口)付近で自決した。両名とも切腹、剣道5段の坂口大尉(のちに服毒自決)が介添えを務めた。牛島軍司令官のみ、首が飛んだようだ。

ご遺体の写真が沖縄平和祈念資料館のホームページに掲載されている。

 

これは戦後に出てきた写真だが、牛島軍司令官のお孫さんの著書「牛島貞満:首里城地下第32軍司令部壕」P.63など、関係者は一様に否定している。内閣府のホームページには牛島軍司令官と長参謀長の自決状況が掲載されている。

 

 

6月24日23時過ぎ、八原高級参謀を含む6名は司令部壕から出て、まず個々で行動をする。7月末迄に新垣上等兵の実家がある(沖縄本島北部)国頭郡半地村で集合、舟を用意して与論島に向かうことになった。

 

八原高級参謀と新垣上等兵は(比較的安全な)海岸ルートから具志頭に向い、ここから八重瀬岳方面に脱出を図ったが、八原高級参謀は具志頭付近の洞窟に潜伏中の6月26日、米軍に「難民」として捕まった。

 

 

(八原高級参謀らが歩いたであろう海岸。見渡す限り友軍将兵のご遺体が、海岸線に沿って散乱していたという)

 

 

冨祖崎村(南城市)の民家で難民として収監された。名前は八木博、山陰地方の中学の英語教師、と身分を偽った。7月24日にCIC(Counter Intelligence Corps, 対敵諜報部隊)の取り調べで身分がバレた。拘留され、拘留中に脱走を考えたが、原爆投下からの無条件降伏。金武湾に面した収容所に収監される。

 

12月30日に那覇の牧港から帰還第1陣組として米軍輸送船にのり、翌年1月7日に横須賀の浦賀港に到着した。復員後、様々な苦労、そして昭和56年5月7日に78歳で亡くなった。葬式に参列した旧軍関係者はたった5人だけだったという。

 

八原は「精鋭の第9師団が沖縄戦の前に引き抜かれず、自分が想定した持久戦をおこなっておれば、終戦の日まで首里で持ちこたえることが可能だし、牛島軍司令官も死なずに済んだのではないか」と回想している。

 

八原は持久戦による沖縄県の住民への犠牲に対する責任を強く感じていた、ようだ。八原は戦後に沖縄を訪れていない。

 

前田 啓介

沖縄戦を戦った合理主義者、八原博通はどんな戦後を送ったのか?

 

 昭和年6月28日 

第32軍の司令部壕がある摩文仁89高地でアメリカ軍の国旗掲揚式が行われた。式典には、第10軍司令官、第24陸軍兵団司令官などのアメリカ軍の首脳が参列した。

 

 

参考資料

八原博道『沖縄決戦』

戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦 知られざる少年兵「護郷隊」』

稲垣武『沖縄悲遇の作戦 異端の参謀八原博通

米陸軍省戦史局『沖縄戦 第二次世界大戦最後の戦い』喜納建勇(訳)

 

 

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