[沖縄戦]具志川城

沖縄県糸満市喜屋武

 

沖縄本島最南端の喜屋武(きゃん)半島の海岸断崖に立地し、三方を海に囲まれている。

 

 

伝承によると15世紀頃、久米島の具志川城の按司(あじ)真金声が、久米島を追われて喜屋武に逃げ延び、この地に故郷と同じ名の具志川城を築いたらしい。喜屋武岬からは西800m離れている。

 

城域にはヒーフチミー(火吹き穴)/海側からはスーフチミー(潮吹き穴)と呼ばれる垂直の穴がある。海岸からの横穴につながっており、荷物の上げ下ろしや、有事の時に海へ逃げる穴として使われていたようだ。

 

 

ヒーフチミー(火吹き穴)

 

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沖縄戦の後半。昭和20年5月、第32軍は首里から沖縄本島南部の喜屋武半島への後退をする。昭和19年12月に第9師団が台湾に転出したため、第24師団がこの島尻一帯に駐留、複数の防御陣地を構築していた。

 

 

だが喜屋武半島での戦いも、八重瀬岳の東側からの米軍の侵攻を食い止めることができず、6月16日頃には、喜屋武半島〜摩文仁、そして摩文仁の第32軍司令部まで米軍が迫る。6月23日早朝、牛島第32軍司令官と長参謀長が自決、沖縄戦の組織的戦闘は終了した。

 

具志川城の下の岩にトーチカがあったが、現在は埋められている。

だが海岸線には自然壕、またはそれを加工した壕も少なくない。

 

 

 

 

 

 

スーフチミー(潮吹き穴)

 

 

 

日本軍将兵が潜む壕群に、米軍が火炎放射した喜屋武半島の海岸。