[沖縄戦]轟壕

沖縄県糸満市伊敷

 

深さ約10メートル×直径30メートルのドリーネの底にある自然壕。東西におよそ約100メートル延びる。内部には川があり上流部はそれなりに乾燥しているが、下流部は湿気っぽい。

 

 

昭和19年10月の十・十空襲以降、轟壕は伊敷集落など地域住民の避難壕として使われた。昭和20年5月下旬に陸軍第32軍司令部が首里から摩文仁に移動すると、同年6月5日に沖縄県知事以下、県庁職員幹部も南進し、ここに避難してきた。

 

同年6月15日、島田知事はここで警察部を含む県庁解散を宣言。島田知事は摩文仁(第32軍司令部壕)に向かうため壕を出立。程なく、島田知事は荒井警察部長と共に摩文仁の第32軍司令壕に挨拶に行っている。

 

轟壕の案内板

6月7日頃に島田叡知事以下の県庁首脳部がこの壕に移動。15日の夜、知事は県幹部を集めて県庁の活動停止を命じており、沖縄県庁最後の地とも言われています。知事は16日朝、摩文仁の司令部に向かいました。同じ頃、銃剣などで武装した日本兵十数人が入り込み入り口付近を占領し、軍官民雑居の状態となりました。

 

6月18日頃から米軍によるガソリンや爆薬の入ったドラム缶落とし込むなどの「馬乗り攻撃」が始まり、死傷者が出ました。手持ちの食料が尽きた住民の中には衰弱死するものも出ました。6月25日頃、先に米軍の捕虜となった宮城嗣吉さんらが投降呼びかけを再三行ったことから約500人から600人の避難民は壕を出ていきました。

 

 

入壕します

 

 

途中、屈まなくては成らない所が数カ所あるものの、普通に立っていられる空間も多い。上流部と下流部の境は既に強い湿気あり。

 

 

 

まず上流部へ

 

 

 

なるほど、こちらは湿気は強くはない。

 

特に何もない

 

 

では下流部へ

 

鍾乳石がなかなかの見応えだが、強い湿気に戸惑う。

 

 

 

 

 

大きな空間に出た。

日本兵が入壕して以来、地域住民はここに追いやられた。

 

 

 

戻ろう

 

 

ドリーネを歩いてみる

(地図の下部)

出典:沖縄県戦争遺跡詳細分布調査、P25より抜粋・加工

 

 

 

巨大なドリーネ、多方向に壕口があった。