[南大東島守備隊]陸軍本部壕(具志堅洞)

沖縄県南大東村池之沢

 

陸軍本部壕は、現在及び戦時も島の中心地であった在所集落の西外れ、標高は15メートル前後の平坦地(サトウキビ畑と貯水池)にあり、ドリーネ地形に東西方向に広がる自然洞穴(鍾乳洞)を利用している。

 

 

出典:沖縄の戦争遺跡、P.295より抜粋・加工

 

図①

 

本壕跡がいつから利用されていたかは明確な資料はないが、『大東諸島戦時日誌』によれば「昭和20年2月17日より警備中隊、棲息壕・戦車壕構築などの作業に従事」と書かれているので、この辺りが工事着手であろう。

 

南大東島での本格的な空襲は昭和20年3月1日以降。この頃にはここが大東島守備隊(歩兵第36連隊)の本部であったと思われる。

 

陣地としての利用が確認される部分は壕口の周辺の平坦面(3段ある)。地主がここの湧き水を水源として取水している壕口(図①)からは内部で二手に分かれるが、いずれの坑道も奥に続いていて、奥の奥には豊富な湧水が見られる。

 

図①

 

壕口は確認できるだけで4ヶ所。

自然に出来た壕口を加工しているものもある。

 

図③←たぶん

 

取水口ではない壕口から潜入した。

図②

 

 

人工的に広げた感じのところ。鍾乳石は折られており空間が確保できている。

図⑤

 

 

階段あり

図⑥

 

図⑦

ここの平削地は広々としており天井も高め

 

 

これなら十分に本部機能が入るであろう。

 

 

図⑧

なんだろう?

天井に鉄製の円盤状のものが刺さっている。

 

 

まだまだ奥がありそうだが、本部壕とは関係の無い部分っぽいので戻るとしよう。

 

 

 

 

 

図④の壕口から脱出する

コンクリート筐体は戦後につくられたもの。

 

脱出!

振り返る・・・

 

 

だが『大東島戦時日誌』によれば、同年4月8日には「軍旗」を島の新東地区の通称・山下洞に移動させ、ここを核に一帯を秋葉山複郭陣地として4月末までに構築して主力に向けたとされる。

 

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南大東島の陸軍部隊は、歩兵36連隊(鯖江連隊)=大東島守備隊、その直轄部隊として大城隊を含む特設警備第211中隊、第32軍航空情報隊(電波警戒隊)、第28師団第2野戦病院の分院が置かれた。特設49・50機関砲隊は海軍配属下とした。

 

兵器は機関銃の他、37・47ミリ速射砲、13・25ミリ機関砲、41式山砲(連隊砲)、92式歩兵砲(大隊砲)が配備された。陸軍の兵士は約3,000名。

 

海軍は資料が乏しいが、沖縄方面根拠地隊大島派遣隊の計700名がいた、の説が有力らしい。第322設営隊412名も配備されたようだ。海軍の本部は大神宮山。兵器は高角砲12門、25ミリ機銃73門、8・12・14・15センチ各種野砲(平射砲・迫撃砲など)。海軍の兵士は約1,100名。

 

軍事拠点は最低でも100ヶ所設けられた。

 

 

大本営は1944年7月にサイパンが陥落したことにより、主陣地を水際から後退した防御しやすい場所とし、海岸線から内の主陣地にかけての縦深陣地とすること(島嶼守備要領/上陸防興協定(案))と決定したが、特に南大東島は水際陣地の構築の方を優先させている。

 

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沖縄人が嫌い、大東諸島では恵愛されている

米陸軍のキャラウェイ中将(第3代高等弁務官)

 

大東諸島は日本の通貨が通用ぜす、大日本製糖株式会社の社有島のような立ち位置だったが、まず米軍下の指導により自治行政が施行され南大東村(北大東村も)が成立した。キャラウェイ中将が第3代高等弁務官に就任すると、南北の島民は土地所有権の獲得を彼に直訴。島民の長年の悲願であった土地所有権が確定、大東諸島は会社支配から民主化へ移行した。

 

ちなみにキャラウェイ中将は、大東諸島以外の沖縄県人にとっては「沖縄は独立しない限り自治権は神話である」=沖縄県民による自治を否定、挙げ句に本土復帰運動を妨害した人物、という位置づけ。