中城湾臨時要塞の津堅島の陣地壕群①36陣地壕

津堅島、うるま市

 

1941年(昭和16年)7月、中城湾臨時要塞建設が下令。津堅島は「中城湾からの沖縄本島の上陸を阻止する」ための要衝で、即時、防御陣地の構築が進められた。

 

守備隊は球師団4152部隊=中城湾要塞重砲兵第7連隊第1中隊(130名)、1944年10月10日の大規模空襲後に駐留した独立混成第15連隊第1中隊第3小隊(33名)、島民を加えた計350名が戦力として存在。3つの陣地に分かれ守備についていた。大砲は部落の北東に設置した12センチ速射加農砲2門しかない。

 

津堅小中学校の裏手の丘陵地帯は唯一の高台(海抜36メートル)で、戦時中は36高地と呼ばれ、この一帯(新川とクボウグスク周辺)は要塞化された。主な陣地壕は3ヶ所。

 

 

36陣地壕

新川グスク(新川城跡=自然壕)の岩山につくられた司令部壕。この壕を取り巻くように、野砲陣地、加農砲陣地、歩兵小隊主力陣地、機関銃陣地、対戦車壕などが築かれた。

 

クボウグスクの野砲陣地壕

中城湾に進入する艦船に対する攻撃陣地。 

 

A1・A2陣地壕

津堅島駐留の日本軍部隊の糧秣倉庫(A1)と野戦病院(A2)として使用された。

 

津堅島の戦いについて、下記のブログが詳しい

津堅島の戦闘

 

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36陣地壕

津堅小中学校北東50m、標高35mに位置する。

 

新川グスク(アラカーグシク)の岩山の自然壕を利用した防御陣地で、2層構造だったものを掘削して3層構造にしている。各層を木階段でつないでいる。司令部壕。

 

慰霊碑

グスクの頂上部にある展望台の下

 

慰霊碑から展望台へつながる道があるようだが、激しく藪っていたので断念。展望台が36陣地壕の頂点になる。

 

慰霊碑の周辺(グスク内)は密林と藪だが、よくみると砕けた岩が散乱している。

これらは米軍の砲撃によるものだろう。。

 

 

階段を降りて学校のブロック塀沿いに進む。

 

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アラガー

井泉があり、よくみると正面奥に銃眼がある!

 

 

 

神聖な場所ゆえ、ガツガツ入れない。

 

36高地(36陣地)の北、津堅島灯台辺りから、GPSや等高線をみながら大回りして、背後から回り込んで辿り着く。藪、藪、密林の連続。36陣地の頂部にあるだろう出入口は全くみつからない。そして不自然に散乱する粉砕された岩・・・直降りする。

 

36陣地壕

出入口にたどり着く

 

学校のブロック塀の所だったのね・・・

 

手を合わせて英霊を弔い

 

入壕します!

 

ゴミだらけ(。・ω・。)

 

ゴミと土砂流入が激しいが、内部は立って歩ける。

ここは2層目っぽい。さらに地下に部屋がある感じだ。

 

2層目(?)は砲室のようだ

 

砲室はかなり広い。

野砲くらいなら問題なく設置できる。

 

ここに多くの負傷兵が寝かされていた。

軍医の判断で動けない負傷兵は手榴弾により爆死した現場でもある。合掌。

 

各層を木階段でつないでいたようだが、その痕跡は確認できなかった。

 

 

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銃眼

 

分厚いコンクリートで補強されている

だが、米軍の砲撃と自爆でボコボコになっている

 

 

銃眼から外に出てみる

 

 

 

壕に戻ろう

 

井泉からみた銃眼・・・

手前に落石

 

 

壕内は特に港側がボコボコだ。割れ目から光が溢れ入る。

ここは野砲第1分隊が担当していたところ。

 

 

出よう

 

 

米軍、4度目の上陸の際、36陣地壕(司令嫁)は、砲弾と火炎放射器による攻撃で破壊されたが、補助看護婦の幾人かは最下層へ避難して奇跡的に救出されたという。

 

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津堅島の戦い

 

 

連合軍は中城湾を警戒して簡単には侵入しなかったが、4月5日に中城湾の勝連半島および知念岬を艦砲射撃と掃海を行う。津堅島の守備隊は掃海艇に対して、12センチ速射加農砲にて砲撃を行った。

 

出典:戦史叢書「沖縄方面陸軍作戦」

 

翌6日に米軍偵察部隊60名ほどが津堅島に上陸を開始(1回目)。独立混成第15連隊第1中隊第3小隊(60名)は先制攻撃を行い、米軍偵察部隊を撃退した。

 

4月10日、米軍は艦砲射撃後、舟艇約80隻で津堅島の南2ヶ所からを攻撃開始(2回目の上陸)。守備隊は激しく抵抗。最終的に36陣地壕に立て籠もる。

 

翌11日、米軍は島の北から3回目の上陸。戦闘は続いたがこの夜、米軍は「津堅島守備隊を壊滅させたし、中城湾に待機している米艦艇が日本軍の砲撃に遭ってはならない」と判断して島から撤退した。

 

翌12日朝、津堅島守備隊は米兵が島にいないことを確認すると、状況を上級部隊である独立混成第44旅団司令部に電報を打つ。旅団司令部は「津堅島を放棄、勝連半島に転進、遊撃戦を行いながら状況により軍主力に合すべき」旨の命令をする。守備隊は戦死者の埋葬、負傷者を36陣地壕内に収容し、補助看護婦(島の女子青年団)5名?も洞窟内に残して、刳舟(=サバ二=小舟)に分乗、生き残った約80名の将兵は勝連半島平屋敷付近(ホワイトビーチ)に上陸する。

 

勝連半島平屋敷付近から、主に水路で本隊がいる沖縄本島の島尻や与那原を目指し、紆余曲折の末、一週間ほどかかったが10隻に分乗した隊は中城湾の与那原に到着した。だが数日後、球師団4152部隊は「負傷者を搬送してこい」なる命令を受け、津堅島に戻る。搬送に手間取り、翌朝(4月23日)再び上陸(4回目)してきた米軍と交戦。陣地壕内にいた動けない負傷者らは軍医の判断で自決(自爆)させられた。

 

4月25日残存兵員数十名は夜、津堅島を再び脱出して本島に漂着後、敵の防衛ラインを背後から突破して、与那原の球部隊本部に合流した。

 

津堅島の戦闘での戦死は、球師団4152部隊=中城湾要塞重砲兵第7連隊第1中隊(130名のうち82名)、独立混成第15連隊第1中隊第3小隊(33名のうち22名)、捕虜なし。米軍は戦死11名、負傷80名、行方不明3名。