海軍ことぶき山(カテーラムイ)壕

那覇市田原3-4(田原公園)

 

昭和19年8月頃、小禄市営住宅南側鉄塔のある小山(ことぶき山=カテーラムイ)全体に掘られた海軍壕。海軍那覇飛行場守備隊の巌部隊(南西諸島海軍航空隊)が本部壕として使用していた。坑道の総延長350メートル。

 

 

 

壕は土の圧力を逃がすための半円形で掘られ、壕の中央部はコンクリート巻で柱や天井、壁を作り補強している。コンクリートの壁の厚みは約30cmあるらしい。指令室・兵員室・暗号室があった。

 

坑道は前後左右に展開する形、開口部(壕口)は10ヶ所?あるようだが、これはほとんど崩落している。確認できたのは4ヶ所。いづれも厳重な扉が設置され中には入れない(見学会もない)。

 

ことぶき山壕は1972年まで米軍基地内にあった(1980年に返還)。

 

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壕口①

市営団地前の道路に面している

 

 

 

壕②

壕①の斜め上にある

 

 

 

壕③

壕③と④は隣接している

 

 

 

 

 

壕④

 

階段を降りて坑道に入るスタイル

 

 

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昭和19年7月10日に南西諸島海軍航空隊が編成される。同年8月24日、小禄海軍航空基地(小禄飛行場)に配置され、奄美大島~八重山諸島の飛行場を管轄した。

 

沖縄戦では巌部隊は海軍陸戦隊(沖縄方面根拠地隊)として地上戦に参加。6月5〜6日(諸説在り)、小禄半島北部の垣花に上陸した米軍第6海兵師団と交戦したが、敵陣地内に孤立。当時、壕内には最大1,000人余の将兵がおり、切迫した状況下に置かれた。

 

13日、南西諸島海軍航空隊司令の川村匡中佐が戦死、南西諸島空本部は制圧され、生存者は投降するか遊撃戦に移行した。

 

同日、沖縄方面根拠地隊大田實少将ほか幕僚6名が、豊見城の74高地(海軍司令壕)内で自決している。ョージ・ファイファー 著『天王山―沖縄戦と原子爆弾』によれば、「小禄の防衛戦では、海軍陸戦隊の武器は対空陣地や破壊された航空機から外された機銃で、それも兵士3名につき1挺という貧弱なものであったが、アメリカ軍の死傷率は首里攻防戦を大きく上回るもので、まともな装備であったら、さらにアメリカ軍に甚大な損害を与えていた」と評価している。

 

 

南部への撤退、避難民、戦死者数ともに不明であるが、8月段階でも約50人が壕内に留まっていたという。なおこの場所から車で10分ほどの場所に海軍司令部壕がある。

 

参考資料

田村洋三『沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』

 

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