宮古南静園の機関銃壕

沖縄県宮古島市平良字島尻888

 

国立療養所宮古南静園の北側の舟揚場がある浜

 

日本軍は宮古島における連合軍の上陸地点を「南静園東側の浜」と想定していた。

 

昭和19年頃につくられた機銃壕だが、壕内に「発電機」を置いていた。

 

この浜に、伐採した木材障害用の杭として並べ、杭に銅線を張り機雷を設置している。機銃壕に置かれた発電器は、機雷の発火用のもの。

 

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ここの機銃壕は岩をU字型に掘削してつくられている。

 

開口部は東と西に各々設けられU字型構造(内部で繋がる)。

コンクリート補強はなく素掘りのまま。 

 

東側(海側)の開口部は幅1.5メートル、高さも1.5メートル。入ってすぐ左側に広い空間があり、設置した部分の床は平坦に削平している。

 

入壕する(・∀・)

 

これが発電機を置いてあった場所ネ

そんなに広くはない

 

坑道をススム

 

坑道の幅は1メートル弱、高さは1.5メートル程になり西側の開口部(機銃の銃眼)へ至る。

 

西側の開口部は輻1メートル、高さ1メートル弱

ここに機関銃が設置されていた。

 

 

西側の開口部(機銃の銃眼部)を外からみる

 

 

では戻ろう!

 

 

U字型の中間部

 

発電機が設置されていた東側の開口部を内側から見る

 

 

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宮古南静園は昭和6年3月に沖縄県立宮古保養院として創立された(昭和16年7月に厚生省に移管され国立宮古南静園と改称)。ハンセン病(らい病)患者の隔離施設だった。

 

昭和19年10月10日の空襲から、宮古島および諸島が散発的な空襲に遭う。南静園も翌年3月までの空襲によって壊滅的な被害を受けた。職員は全員職場放棄をし、取り残された入所者たちは、日本軍の撤退命令もあって、海岸付近の自然壕「ぬすとぅぬガマ」に避難した。

 

病気の悪化や極度な栄養失調や赤痢、マラリアに苦しみ、多くの入院患者が命を落とした。

 

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