都屋のトーチカ
沖縄本島、読谷村
読谷村の都屋漁港内の岩山の南端に、通称アブトゥガマのトーチカ(洞窟式陣地)がある。
読谷村都屋に駐留していた陸軍第32軍第24師団歩兵第22聯隊聯隊砲中隊第3小隊が、1944年(昭和19年)8月以降に構築したもの、とされる。
なかなかヤル気を感じさせる銃眼(砲口)だ。
開口部はかなり大きく、大人でも外から中に入れる。
出入り口は道路工事で破壊(封鎖)されているので、銃眼から内部に潜入する。ちなみに内部は浮遊物、不法投棄のゴミなどが堆積している。
この銃口(砲口)がある部屋は広く、砲室といった感じ。
備砲されていたとされる41式山砲なら十分に使える(回せる)。
(41式山砲)
トーチカからは北西と南東の方角を見ることができる。
砲口に向かって左(道路側)は出入口と思われる坑道(封鎖)、向かって右は直進して突き当たりがT字路になっており、手前が銃眼、奥が機銃用銃眼に成っているようだ。
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この砲口、出入口と思われる道路方向の坑道を歩いてみる。
ゴミと土砂堆積で先に進めず。
出入口は塞がっていた
これを外から見る
たぶんここが坑道があったところ(削られちゃっているし)
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砲室を経由して海の方へ直進する(・ω・)ノ
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まず魚市場がある方の銃口
かなり小さく、機銃などの設置は無理そうで、コンクリートでの加工は無し。
銃口と書いたが用途不明。
これを外からみると、、
外から覗いてみる(・∀・)
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楚辺方向の坑口には機銃用の銃座がある
銃眼は駐車場設営時、穴に石を積めたようで確認不可。
外から見る(よくわからない)
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では砲室に戻ろう
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砲室
コンクリート補強が成されている
陸軍第32軍司令部による当初の計画では、第9師団を中心に沖縄防衛計画を固め、第24師団を沖縄北飛行場(読谷)と沖縄中飛行場(嘉手納)及び海岸防衛に充てていた。
だが第9師団は1944年(昭和19年)12月末に台湾防衛のために移駐してしまう。独立混成第44旅団で中頭地区を防衛しようと計画するが、第32軍司令部は「沖縄本島南部(首里戦線前衛陣地以南)に主防御陣地を構築、持久戦術を取る作戦案」を採用した。読谷村の水際陣地群は放棄されたようだ。
この陣地は楚辺陣地とは異なり、岩山を掘った人工壕のようだ。
砲口は厚さ約1メートルのコンクリート壁。海側にも2つの銃眼がある。コンクリート壁に横長の四角に開いている機銃用の銃眼、左手は自然の岸壁と石積みを利用した扁平の銃眼。備砲は41式山砲とのこと。
住民の証言によれば、「米軍上陸に際して使われたような様子はない」とのこと。米軍は粗野・都屋のトーチカとも、昭和20年1月には存在を把握していたとのこと。