[大慈山中之院]軍人墓地

知県知多郡南知多町山海字土間53

 

 

案内板

『ここの軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第3師団歩兵第6連隊の兵士たちです。
 

緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、船で野間沖に待機していた巡洋艦、駆逐艦に乗り込み、わずか26時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月23日の敵前上陸でしたが、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。


軍人像そのものはめいめいの遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。昭和12年から18年のことと言います。


また戦後進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が、国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない、あれを日本人の手で壊すことはできない、どうしても壊すというなら我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろうと頑張ったおかげで像は壊されずにすんだということです。


建立当時より名古屋市千種区月が丘にあったもので、当山には御縁により平成7年11月にお移しし、この地で安住いただいております。現在もよくご遺族ご縁者の方々が御参りにいらっしゃっています。
 

天台宗 大慈山 中之院』

 

 

中之院「たぬき寺」の境内、と言っても外れの駐車場のようなところの一角にある。

 

 

丹羽寅次郎氏の呼びかけで、遺族が戦没者一時金を出して軍人像(いわゆる供養塔)が製作された。軍人像はコンクリート製で、コンクリート石像作家の浅野祥雲氏(明治4年ー昭和53年)が昭和12年から18年にかけて製作したもの、とのこと。

 

 

 

当初安置されていたのは名古屋市千種区覚王山の月ヶ丘軍人墓地にあったようだ。区画整理によって撤去される際、平成7年(1994年)11月に中之院が軍人像を引き取った。

 

 

台座付きが26体、台座無しが66体

計92体が安座している。

 

 

 

 

名古屋第3師団歩兵第6連隊の派遣の背景

日露戦争に勝利した日本は、明治38年(1905年)にロシアとポーツマス条約を結び、ロシアが清国から手に入れた満州周辺にある様々な権益を譲渡することに成功した。

 

昭和6年(1931年)9月18日、日本当局のグダグダな対応に我慢しきれなくなった関東軍は、独断で満州事変(満蒙を守る戦い)を起こし、関東軍は満洲全土を占領する。

 

居留民の警護を目的とする支那駐屯軍(上海海軍特別陸戦隊=日本海軍の陸戦隊)は、中国軍との小競り合いが頻繁に起こるようになり、現地の治安は次第に悪化していく。

 

昭和7年(1932年)1月28日に上海で日本軍(支那駐屯軍=日本陸軍)と中国軍のが軍事衝突し、第一次上海事変が勃発する。前年の満州事変への国際社会の目を逸らすため、日本陸軍が画策したとされている。

 

関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、同年(昭和7年)3月1日の(傀儡国家)満洲国建国に至る。昭和8年3月、日本は国際連盟から脱退。

 

昭和12年(1937年)7月7日〜11日に小競り合いから盧溝橋事件がおきる。揚子江沿岸に在留邦人約3万名の引き揚げを訓令、上海への引き上げを行った。その上海も戦火がおよびそうになったため、奥地からの引揚者及び上海居留民約3万名のうち、婦女子約2万名が8月13日〜19日頃までに帰国して約1万名が残留した。

 

第二次上海事件のきっかけは盧溝橋事件の1ヶ月後におきた。支那駐屯軍(上海海軍特別陸戦隊)西部派遣中隊長の大山勇夫海軍中尉と斎藤與蔵一等水兵が中国保安隊に射殺される事件が起こり、両軍は一触即発の状態になる。

 

中国軍は約3万名の兵士を集め、日本と対峙する。対する支那駐屯軍は4千名しかおらず、海軍大臣米内光政は8月13日の閣議で「在留邦人保護」の名目で日本陸軍の増援を依頼。日本陸軍は渋々と2個師団を上海に派遣した。

 

名古屋第3師団(日本陸軍)は歩兵第6連隊を含め、同年8月15日に動員下令。駆逐艦天霧・朝霧・夕霧にて名古屋港を出港。出港から16時間後の同月23日に上海呉淞に敵前上陸。呉淞は黄浦江が長江(揚子江)に流入する地点(呉淞口)の西岸で激戦を戦い、大半が死傷したという。第3師団は上海方面で様々な作戦に参加、生き残った将兵は翌年5月24日に名古屋港に帰還した。

 

 

等身大より少し小さい1メートル程の全身像、胸像まで様々。

全像、軍服着用。

 

 

第二次上海事変では9月に3個師団、10月に更に3個師団を逐次投入。抗州湾上陸を敢行して上海方面を制圧したところで終えた。この第二次上海事変をきっかけに泥沼の全面戦争へと発展する。

 

中支で散華した英霊に手を合わせました。合掌。